2018年3月20日火曜日

流れ続ける思い

‥春ですよ!
ぼくの周囲では年中冬が終わらない。みんな冬は氷濤で、年中「かのあ」はぼくだけだ。
年間通して「かのあ」を考えている時間世界ランキングがあったらぼくは堂々一位だと思う。

逆に言うと「かのあ」でこの冬の間どんな物語が生まれたかを知るのはぼくと冬の助っ人たちの秘め事である。誰も知らない。互いに分からないのだからそれでちょうど良い。

皆顔を合わせれば氷濤の話をしている。何だよと言いながら氷濤の話ばかりしている。それしかない。いや、それがいいのだ。冬のために夏を生きる人も多い。どっちが大事かは自由だ。
苦しい顔ばかりしていないで好きだって素直に言やいいじゃん、と現場を退いて三冬になったぼくは冷静に思う。

自分が関わっていない現場については、話の聞き方に気を付ける。
色んなものの見方がある。どれも嘘ではないけれど、事実であることは稀。まっさらな目で物事を見ることは年を重ねるほどに難解だ。いらん感情がどうしたって足される。
冬の間中13人の男たちが顔を突き合わせる。同じことを見聞きしても、受け取り方は人それぞれ。モノの見方は天国を地獄にも天国にもできる。捉え方次第。


時間を慈しむ道具。北方民族博物館にて。

時間は、氷濤会場にも流れているし、勿論ぼくがいた場所にも、世界中共通、平等に時間は流れてきた。観客のいる・いない、多い・少ないの程度の差はあれど。

変わらない方が不自然なわけで。何にも影響を受けずに同じことを繰り返すことは困難だ。
ぼくは夏にきれいな水で遊ぶように、冬は氷‥ではなくコーヒーと対話し続けてきた。

店ができた夏、大好きなSotoCafeにサヨナラをした。
思えば「ガイドとしてのぼく」はそのときに一度殺したような気がする。
「個」としてのエゴだけだったぼくは「全体」のためをそのときに選んだ。
おかげでぼくは丘にいる時間が増え、作業効率を上げるための思考回路を得て奇しくも至極まともになった(気でいる)。

ガイドは狂ってる方がいい(と思っている)。
一度殺したガイドとしてのぼくは、まだぼくの内で息をひそめて生きているだろうか。間に合っただろうか。
何かが終わらないと何にも始められない。
どんどん手離していこう、本当に欲しいものを手にしていくために。

凍結状態のカヌーガイドとしての思考はこの春に解氷するのか。

新しい生業には、これといった正解はない。各々の感性。

こうご期待。

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