2017年12月31日日曜日

漕ぎ納め。歩き納め。

凪ぐ予想をして、早朝の湖へ。
好天なら支笏富士は赤く染まる。


冬の朝焼けの美しさは秋の夕方を凌ぐ。
どうして早朝の太陽は山をピンク色に染めるのだろう。




あたたかいはずだが、けあらしも出た。


漕ぎ納めをしたら歩き納め。
漕ぐだけでも歩くだけでもなく、良いとこ取りしていくのだ。


まあ、あたたかいからこんなもんか。七条大滝今季初視察。水の音が大きい。


ヒグマとおぼしき足跡発見。
冬は痕跡が多く、歩くのに時間がかかる。アニマルトラップ


年越す前に、かなぴょん餅を砂糖醤油でいただく。うんまい。
感謝。
小学生の頃はみんなでビルの屋上で餅ついたっけなあ。今思うと。場所がない都会人らしいナイスなチョイスだよなあ。土地柄土地柄。

‥ということで、2017、30歳。今年もお世話になりました。
あなたの暇つぶしとしての役割を全うできたでしょうか。
ぼくは、今年も迷ったり悩んだり悔んだり怒られたり、楽しんだり笑い転げたり、360度あらゆる感情をめいっぱい表現してきました。‥させられて、か。カヌーガイドという仕事は、はたまた「かのあ」?はあらゆる感情をプレゼントしてくれるので飽きません。

来たる2018年、さて、一体どうなるのか、どうしてやろうか。とりあえず、楽しみ切ることを絶対条件として、ひとまず、よろしくお願いいたします!
皆さま良いお年を!

明日は早速カヌーに乗れるかな。

2017年12月30日土曜日

良き仕事納め


人が休むときに働くのが好きだ。
人が働くときに思いっきり遊ぶのが大好きだ。


なおさんがつくってくれた。シャッターに飾った。一気に正月が来る気になる。

正月。気忙しく金稼ぎに精を出すのが正しいぼくの正月。
今年は31日をお休みにしたから、本日2017年仕事納め。

北からやって来たダンディーなおじさんとの出会い。かなぴょん。なおきさん。なおさん、たいち・わか・かほ。世界のおともだちとの異文化すれ違い。ホットウォーターはノーサービス。こんなやりとりをしていると、嫌でも氷濤まつりの激戦連戦が思い出される。
稼ぎたい、振り回されずに。‥という甘~い方程式は通用しない。分かってらい。

「良いお年を。」
と挨拶を幾度となく交わす一日。

言いやすい、良い言葉。
誰もが良い気持ちで一年を過ごしたいと願っているこの世界。
誰もが心健やかに過ごせる夢のような世界は実現不可能ではないはずだ。無理だと思うから不可能になる。信じる力が足りなかったのはぼくかもしれない。すべてを信じることを投げずにいこう。

二日続けて夕方が良かった。明日はどうだろう。
夕方が良い。それだけで嬉しい気持ちで家路につく。幸せはつまるところ、そんなもんだ。それ以上でもそれ以下でもなく。
ただ、目の前を過ぎ去っていく美しい景色を逃さず見つめながら生きていきたい所存でございます。

2017年12月29日金曜日

カヌーと手前味噌

朝、ツアー。その間閉まる店。
さすがに切り替えできるようにもなったぞ、手のかかる店と付き合って三冬目。
何事も三年続けて初めて語ることを許されると思っている。
そんなわけで、素人なりに、来春を無事に迎えるのが今から楽しみで。一段落つけるな、と。
稼ぐ意味とかお金の重みとかやりがいとか達成感とか、無意識で当たり前のものとして享受していた全てが当たり前ではなかったこと。

しかし、大人しく待ち受けるより、稼ぎに自ら攻める戦法自体は、性に合うような気がする。単純に外で働くのは気持ち良い。

冬も風が落ち着いていればやさしい気持ちでカヌーに乗れる日もある。
きれいな水があって、風が吹いて、うるさい音はなく、人がいて、寒いねって笑い合う。
それだけ。主張も誇張もしない。ただ、あるものをあるね、って一緒に。
共に感じる。
カヌーはぼくが本当に欲しいモノだけ全部くれる。ぼくがお金を払うべきではないかと思うくらいツアーでもらっている。それを仕事にして食えている幸運。

――――――――――


あれから三年。

なんだか、ずいぶん昔な気がするけれど。
たった三年。されど三年。
心が落ち着かないと味噌は仕込めないようだ。
「発酵」と「暮らし」の密接な間柄。

いずれは麹もつくりたいもんだなあ。


この頃は、寝かせるとおいしくなるものにめっぽう弱い。

2017年12月26日火曜日

仕込む&仕込む


引き続き大荒れの支笏。朝方、店から第五駐車場へ向かうだけで遭難気分。バラクラバなくして歩けへんでしかし。
比べると夏って天国だよなあ。
何事も起きないことを願いつつ、窓ガラスはシャッターで守る。つまり、やはり営業不可日が続いている。

どうしたものか。それでも何でか腹は減る。
食べる。‥ために仕込む&仕込む。
長沼の不思議ほっこり系農家娘がつくった米から作られた「生麹」に着手。
我が家の食卓はその娘っことおおがみさんに支えられているといっても過言ではない。

まずは、「しょうゆ麹」。



「春夏秋冬」という醤油(世間一般的には「めんつゆ」というジャンルらしい)がぼくは大好きなので、それで仕込む。乾燥麹と割合が変わるようだ。仕込むという程のことでもないが。
材料:麹、好きな醤油。
保存容器はガラスかホーローが気持ち良い。

まだまだあるので、それでは「塩麹」もたまには仕込むか。
瀬戸内の花藻塩」にしてみる。材料は、麹、水、好きな塩。仕込むという程のことでもないが。

明日からぼくの暮らしに麹たちが色を加えてくれる。
どちらも一日一回声を掛けながらやさしくかき混ぜ育てていく。
気温が低い冬は時間もかかる。しかし、気を長く持てるのは、おいしくなることを知っているから。麹というのはしかし、精神的余裕がないと制作できない。

お次はさて。
ではオリジナルカレー粉を調合すべくホールスパイスをコーヒーミルで挽きますか。
鉄の卵焼き器で香りが立つまで炒ったら終了。あとは寝かせて皆が勝手に足並みそろえてくれるでしょう。寝かせるほどに味が変わる、これもまた育てる面白さ、配合パターンは無限大。ぼくはカルダモンの上品な香りが大好きだ。「スパイスの女王」と評す方もいるそうな高貴な存在。

では、大豆は水につけましょう。
今年は生産者との密接な関係性が構築されたこともあり、数年ぶりに味噌を仕込む算段。
カヌーは急には止まれない、味噌も急には仕込めない。ダンドリダンドリ。

腹が減っては戦はできぬ。
本日のパスタは、オイル系。トマトソースもクリームソースも良いけれど、シンプルなのが好きだ。
ガーリックとタカノツメ、オリーブオイル、自家製ベーコン(これがあればもうおいしい)とタマネギ、ホウレンソウに塩コショウ。奥行きを出せずスープの素少々。
先日のJAFMateを参考にしたかぼちゃ(ルスツの道の駅にて購入)としょうがのスープはこれにて完売。腐りかけのかぼちゃの甘いこと。

昨年の冬からしつこくつくり続けているカリーを仕込む。
今回はパキスタンカリー。

夜はガーリックライス(オリーブオイル×ニンニクが流行り)on the 目玉焼き。ダイコン(娘っこ作)とがんもの煮物。デザートは納豆。和洋コラボ。

隣では奇跡のパウンドケーキを焼き上げるべく、今冬何本目?試作にひたすら挑み続ける人あり。
あくなき探究心。気ちがいじみた情熱。向き合い方にみるストイックっぷり。ぼくがオモシロイと思う人たちは「狂気」に溢れている。
「狂気」を換金化している、していく気概に溢れていて、尊敬せずにはいられない。

つくること。食べること。
どちらも最高の娯楽。

2017年12月25日月曜日

クリスマスは荒れる


大荒れの支笏湖。
強風により、氷濤のタワーとステージが壊れたらしい。いやはや‥。


氷濤まつり制作陣営撮影。倒れたタワー。

冬のカヌーツアーは安全第一で動きます。

以下、今月のJAFMate1月号より。
山下洋輔さんの「幸せって何だろう」エッセイ。

・「幸せって何だろう」と言われて考えたら、結局、好きなことをやって気持ちよくなることだ、というやや乱暴な結論に達した。
・何もしない人間の前にそういうもの(=好きなこと)が急に現れることはない。自分は何をしたいのか、もがき苦しむ中で色々なことに出会うのが普通だろう。そして、ある時に「意地でもこれに決める」という選択が生じるのではないだろうか。
・維持を張って選択し、目的を達成して喜びを味わう。次の瞬間にまた別の好きなことを見つけて同じことをしても構わない。


2017年12月23日土曜日

『「思い出」のレシピ』大滝末馬

『「思い出」のレシピ 料理長漂流記』
大滝末馬(おおたきすえま)/読売新聞社/1997年10月13日


大滝裕子さんの個性的文体とは打って変わって、癖のない、入りやすい文章。
本人の目線、寄り添う夫/妻の目線。見方が変わると、人が変わって見えるからオモシロイ。

主観と客観はイコールではありえない。誰にどう見られているか、誰をどう見ているか。どちらが真実かは分からない。自分の感覚によって人を見るしか人間にはできない。
春凪のようになるだけ水平に見つめるよう努めはするけれど、最低限のモラルが守られない場合、季節の変わり目には風が走る。うさぎが跳ねる。
一方通行では成立しないのが「間柄」。寄り添いたい人がいるか、寄り添いたい人が寄り添いたいと同じように思っているか。素直に表現し合えているか。
いつしかそれは「惰性」、「馴れ合い」に成り下がってはいないか。「愛」という美しい言葉を言い訳にしてはいないだろうか。それは本当に「愛」か?「あなたのため」は「自分のため」にすり替わってはいないか?
良い意味での緊張感を常に互いに持ち続けることを忘れずにいきたい。
どれもその人。人によって人は変わる。人間の多面性というのは複雑怪奇だ。

どうでもいい人にどう思われてもそんなことはどうでも良いけれど、どうでもよくない人にどう思われているかは大問題。自分が今の自分を好きといえるかどうかも同じように大切にしてきた、していく。

人に期待せずに人と関わることは、ぼくには酷く難しい。好きかどうでもいいかの二択。間はない。ほどほどの距離感という分かりにくいのを保つことが困難だし、上っ面の関係性の維持の仕方なんてそもそも学ぶ気もない。時間は有限だし、愛想笑いに使うのは控えたい。不器用なだけだが。
浅いのが好きなら最大深度363mにたどり着くこともなかった。無益なことは習得せずにやってきた。
先に好きになってしまうことが(無意識であったにせよ)今までやってきた人間関係の構築方法で、
ーだからぼくの世界にはこれまで「好きな人」しか存在してこなかったー
それが通用しない時はさて、どうしたらよいのだろうか。
武器はそれだけだ。「好き」というエネルギー、好奇心だけ。
惚れさせてもらえない、惚れる要素がないとなると、一歩二歩退く、諦める、しかない。諦める、それは何か良いものを生み出せたか?
「悲しい」-「センチメンタル」=「虚しい」。
虚しいってのには、解決の策があるものだろうか。いやはや、虚しいってのはただただ虚しい。こんな思いを何故せねばならんのか。
何でもない風で、酷く引っ張られてしまうのだ。地球は丸い。良い空気は循環するし、悪い空気も循環する。

大滝末馬(この本を手にしてようやく「すえま」と読むことが判明。かずま?みま?気になって仕方がなかったのでスッキリ!)氏、19歳で日本を飛び出しカナダへ。そこからの18年間の海外での料理人生活の記録。

以下、ちょいと引用。

・不思議なもので、生活は言葉はできなくても思いやりを持った人たちに囲まれると、自然に始まるものだった。
・極端に言えば、料理以外のことを考えるのは時間がもったいないのです。
・モントリオールで妻と出会い結婚したことは、それまであまり味のしなかった一人暮らしの日常に妻という新しい味付けが加わったことになり、人生がいろんな味に変化して、疲れることもあるけれど、がぜん面白くなったのは事実です。

2017年12月22日金曜日

『スーパーシェフと毎日暮らす』大滝裕子

『スーパーシェフと毎日暮らす』大滝裕子/正文舎/2011年12月1日


中標津(なかしべつ)という、とってもあれこれちょうど良い健やかな東の町がある。空港もある。ここのソフトクリームがうまかった。牛牛牛。開陽台。標津港も近い。魚もうまい。
range lifeという、最強の服屋が中標津になければ、支笏湖にマフィン屋はなかったかもしれず。
コンビニではないコーヒーも飲める。
千歳が中標津みたいな雰囲気だったら良いのに、肌で感じて思った。
良い町だと思うところには、良い店が集う。良い人が集まるとそれは良い町となる。

ラウキカという焼菓子屋さんがある。
店主が「面白いですよ、その本」と。春に手にした本を寝かせて冬となった。

スーパーシェフ&主婦は今はどこで何をしているのだろう。
「good-eating&good-cooking」大滝。かつて札幌にあったらしいスーパーシェフたちの店は今は無い。
食べてみたかったなあ。
マダム節、炸裂。言われた通り、オモシロイ本でした。

これもまた気になる方は貸し出しますのでご一報下さい。

2017年12月21日木曜日

降らぬなら降るとこ行けばいいやない

とりあえず、遊ばねばならん。
それが仕事だろうと、遊びだろうと。
オンオフ問わない遊びがぼくをつくってきて、それが仕事に活かされ、今夜のメシを食べる糧となり‥。
どうせいつか死ぬのだから、楽しい方を選びたい。


支笏湖はいつも通り、雪なし。

去年は積雪状況最悪だったニセコ。
今年は絶好調とのことで、ようやっとシーズンイン@ニセコモイワ。
片道100km。

‥‥ひゃーほ!!!!

子どものときにこういうひたすらにやさしい雪に出会っていたら、スキーも楽しくてたまらなかったんだろうなあ。おっかなくて仕方がなかったような。

帰りはやっぱりセーコマのカツ丼。

追伸、どこかにスキーブーツ23センチ&スキー板、落ちてませんか。
心当たりのある方は責任を持ってコチラで有効活用いたしますのでご一報ください。

2017年12月19日火曜日

Dancing night 千歳川


とある湖のほとりでは、一足早いクリスマスの宴が行われたそうな。
「娯楽」ってのはやはり「生」が熱を孕む。

翌朝は千歳川へ。
今年のGWの連戦でようやっと自分なりに咀嚼できるようになった、千歳川の「川」言葉は多分「成長」。

カヌーで千歳川を漕ぐことはできないけれど、カヌーで千歳川を下ってみたいお客さん。
カヌー(の気持ち良さ)と千歳川(の美しさ)を感じてほしいぼく。

はじめまして。同じカヌーに乗り合わせた縁の不思議。

あるものを出し合うこと。
求め合うこと。
生業の根底にいつもあるもの。
あげるだけでも、もらうだけでもなく。上下も優劣も肩書きもそこにはなく。(危機管理はおいといて)
ただ、お互いに在る。一緒の時間を共有する。共に過ごす。
押し売りも強制もそこにはなく。

水の上は、本当に自由。

何が欲しいのかな、考える。何をあげられるかな、考える。

カヌーに乗っていると、よく考える。カヌーに乗るようになる前より考えるようになった気がする。そんなこと考えても何にもならないかもしれないことほど考える。
今持っているカードの中から最適なタイミングでカードを切る。

ツアー中、オジロワシの幼鳥がサケを捕食しているところに邪魔してしまった。
白い雪は一部鮮血に染まり、ぼくらに驚き飛び立ったオジロが残した頭のないサケは白いベッドに静かにただただ寝そべっていた。
ただ、在る。ただ、在った。語らないものが持つ圧倒的な説得力。
「よく生きた。」頭のないサケが言った。

ぼくは、あのサケのようになりたい。

2017年12月17日日曜日

『無銭経済宣言』マーク・ボイル

お金についてどう思いますか?
ああ、そうだ。丁度よい本が転がっていたよな。

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』の、マーク・ボイル第二作。
読む本は八割方、まさとし書店で。


紀伊國屋書店。吉田奈緒子著。(半農半翻訳な日々を送る方らしい)2017年9月7日。
国が違うので、できることできないこと様々あるが、まあ、細かいこと云々は何でも、何とも痛快・愉快。

以下、本文から三つ引用しておくので、読みたくなった人がいたら無料貸出しますので、ぼくに声を掛けてね。

・問うべきは「自分の人生にとって何が一番大切か」である。自由か、それともモノか。

・ひとりひとりが人生で経験できること、驚嘆に値することは山ほどあるのに、四六時中、仕事に追われてばかりいる。何のためかといえば、本当は必要もないものを買うためで、そうやって買ったものに最後は自分が支配されるのがオチだ。

・新時代の三つのR「レジスト(抵抗せよ)、レボルト(反乱せよ)、リ=ワイルド(再野生化)せよ」

2017年12月16日土曜日

一夜で

冬もカヌーを店先に飾ってみると、これがなかなか良いもんです。


にたーっと笑っているように見えるのはぼくだけだろうか。

降らない降らないと嘆いていたら、夜の間に降りました。5センチくらい。

今日は「千歳川カヌーツーリング」へ撮影部隊として出動することに。
渾身の写真はかのあブログにupされる‥はず。
こうご期待。

2017年12月15日金曜日

スパイスという迷路

カレーの道は、何だかコーヒーの道と似ている。
カナディアンカヌー道もそうだが、正解がない。何でもアリ。個人差しかない。
数学のような冷めた世界とは真逆、そういう懐の深い世界にめっぽう弱いのかもしれない。


どちらも香りが大事。粉よりホール(豆)。自分で挽こう。
挽いたら今度は香りが立つまで炒る。あとは冷暗所で寝かせて味を馴染ませる。
オリジナルブレンド。なんていい響きだろう。

「みるっこ」の出現により日陰者と化した「メリタ」の電動コーヒーミルは今、第二の人生‥カレーのための道具へ華麗に変身を遂げているというわけだ。
こんなはずじゃないけれど、そんな人生が案外良かったりするのだよな。

コリアンダー、シナモンスティック、ブラックペッパー、カルダモン、クミン‥
ああ、ぼくは、スパイスのことをもっと知りたい。

世界にたったひとつのカレー粉が欲しいそこのあなた、‥ありますよ。
お問い合わせはぼくに直接どうぞ。

「おいしい」はつくれる。なるだけなら、自分の手で生み出してやりたいもんだ。

2017年12月14日木曜日

シカを尊敬した日

桃源郷を探しに行ってきた。


どうにかたどり着いた桃源郷(写真は過程)で食べたのは、【ファミリーツリーカフェ】(長沼)のレモンケーキと、ケニアの農薬不使用紅茶。コーヒーは冷えるからね。

店内で食べてもおいしかったけれど、しんどい思いをした後に食べたら、それはもう、
‥like a heaven。
生きてて良かったと思わされる味わい。やさしさというナイフで切ったのであろう、ぼってりと、厚めの切り口。外で凍えるぼくを見越して?あの人はエスパー?ぼくのこと好きなのか?勘違いをしそうにもなる。
何でか、ぼくはレモンケーキが好きだ。

話を戻そう。そろそろ冬の遊びがしたくて仕方がない。
一応スノーシューを準備してみたものの、邪魔なだけ。
雪が足りないぞ、支笏。
ササが隠れきらないので、非常に厄介。道が限られる。どこででも‥行けない。
先人‥、けもの道が頼り。
けもの道を辿っていると、ヤツらが低能だとは思えない。むしろ、尊敬するしかない。彼らの躍動感ある走り方たるや。それに引き替え、自分はなんて面白みのない歩き方なのだろうと敗北感に打ちひしがれる
‥のも、嫌いじゃない。

フレッシュなシカ糞とぼくは自然界において対等。どちらもいつか土に還る。
こざかしいか、やかましいか、臭いか、かわいいかなんて差異は人間界では最重要案件のようであるが、自然界においては些細なこと、どうでもいいのだ。
生き抜く力があるか、ないか、それだけ。上下もクソもない。いや、クソだらけではある。

そこらへんで簡単に死ぬかもしれない状況となる確率がぐんと上がる冬。
ああ、でも、そういった状況を嬉々として受け入れているぼくがいる。

死との距離が近ければ近いほど、生が輝く。
自分の命を自分で握っている感覚。コレを手離すことなく、何より大事に励んでいきたい。

2017年12月11日月曜日

welcome、焙煎


夢中になると、本当にまわりが見えなくなる。
釣りの世界は足を踏み入れたらヤバそうだから、距離を保っている。

自分の癖は分かっているつもりだ。
焙煎も足を踏み入れたらヤバそうだから目をつぶってきた。

しかし、ついに、禁断の果実に手を伸ばしてしまった。


自分で焙煎したコーヒーを先日初めて飲んだ。
専門的にどうたらとかどうでもよく、感動的体験だった。

いつもなら、コーヒー豆を挽くところから始まる工程。
一手間足したら、面倒くさそう?

否。文字どおり「手ごたえ」を手の内に取り戻した喜びったらない。

時間を省くために回る世界は立ち行かないことは今の世界を見ていれば明らか。
後追い自殺などしたくないからぼくは時間をかけていきたい。

小難しいことをいったら手が出ない。
とりあえずやってみよう。

誰でもない自分が焙煎した豆を挽いて淹れる。豆を買い付けて仕入れるという行為以外はすべてぼくの手の内。
「淹れる」だけでは味わえない新しい味。
これは、なんてspecialな経験だろう。
コーヒー。やっぱり最高の嗜好品。



2017年12月7日木曜日

自己満で終わらぬよう


「店」についてよく考える。
店のあり方。雰囲気。方向性。
店員の佇まい。言動、振舞い。距離感のはかり方。
店に行くと考える。嫌な気持ちになるとこう感じさせてはならんのだと改めて思う。
さて、ぼくはどうか?誰もを歓待できているか?

シャッターが開いたのなら、「店」は誰にでも開かれる。
間口の広さ。食べることはカヌーを漕ぐことより多くの人にとって身近だ。

「店」は来るものは拒まず、去るものも追えない。これは店というか商売か。

何かを求めて人は未知なる店の扉に手をかける。何も求めず人は出歩かない。
おっかないけれど、何かに期待してドアは開く。クマ鈴が鳴る。小さな勇気。その気持ちを汲み取ってあげられるようでありたい。これはぼくの理想。
しかし、作業中は邪魔をされたくない。未熟だ。ガンバロウ。

2017年12月5日火曜日

三冬という時間の刻み方

ぼくが氷濤制作二冬目のとき、彼は一冬目。
「一冬だけだから」と、引き気味だった。楽しくなさそうだった。


氷濤エース:どるふぃん。この顔。わはは。
作業中でも手を止めカメラ目線をくれるサービス精神たるや。
ちなみに、これが「氷濤ツナギ」。
かつてはみんな愛用していたホーマック製品である。

ぼくは二冬をここで過ごし、カフェに挑むべく、温泉街へ向かい、三冬目のカフェである。
彼は夏は姿を消したり、一緒に働いたりもしながら、冬は必ずここに帰ってきていた。
どるふぃん、四冬目の氷濤。氷濤のために生きているよね。うん。


写真右上が彼。
ぼくは現場で上にいる彼を知らない。

一日24時間という唯一の公平性。どこに、何のために使うかは誰にも強制できない。

どこに身を置くか、置きたいか。選ばれるんじゃなくて、仕方なくの消去法でなく選ぶこと。
新たな展開を拡げる可能性を孕むのは能動的選択だけ。
楽しむのも苦しむのも、自分次第。
どんな自分でありたいか、全部、自分で決められること。

楽しく働く人を見るのがぼくは好きだから、どるふぃんはじめ、今日はそんな輩を見れてまっこと嬉しい。
ぼくはぼくの土俵で踏ん張るのだ。

やるなら中途半端でなく、どっぷり関わりたい特殊な仕事である。制作こそ氷濤の神髄よな。

2017年12月4日月曜日

満月の夜とたいやきを見直した日


なおき&ほーりー、絶妙なタイミングでアポなし再会。
価値観を共有できる安心感。有り難い。



2017年12月3日日曜日

みぞれ雪、静寂、常連さん


支笏湖、未だ雪なし。


ぬくいとお化けモード。氷濤まつり後半戦的な。

気温が高い。どうにか雨(寒ーい雨ほど最悪なものもない)ではないみぞれ雪の中、「ウィインターカヌークルージング」へ出動。

「冬に来る人なんているんですか?」

『いやあ、夏に比べると少ないですよ。でも、たまに変わった人がきてくれますよ。‥ね。』

わはは。パドルクエスト語的に「ウィットに富んでいる」かは分からないけれど、冗談交わしながら他愛もない会話。
行間を読み合う。これこそがコミュニケーションの醍醐味よなあ。駆け引きと探り合い。生のコミュニケーション以外はしたくない。と言いながら毎日ブログを書く矛盾。ぼくは何だろう。思考整理術兼誰かの暇つぶしになれば一石二鳥ということで。

「本当に静かですね。いいなあ。現実に帰りたくないなあ。」

雪もない、葉っぱもない。ないない尽くしに見える今の支笏でも、お客さんが持ち帰ってくれたものは少なくないように感じる。
「何にもない」って意外と手に入らない贅沢なんだよなあ。「寂しい」って片付けるのは誰でもできるし、勿体ない。
自分なりの宝物を見つけられるかどうかは、心持次第。見つけたいと願う人だけ。

寒くても手袋は履きたくないのだが、さすがに限界だなあ。手、赤。

店に戻ると程なく、昨日来てくれたカフェのお客さまがお待ちかね。
人気者は辛いぜ。求められる内が華よね。貧乏性。

カヌーもカフェもぼくはとても楽しい。自分を殺す必要がない。今の自分にできることで稼ぐ。簡素で良い。
苦しいときもそりゃあるけれど、楽しみたくて生きている。

勿論、売上うんたらってのも無視はできないことだけれど、お金のことを考えすぎると「しなければ」という義務になる。義務を負うほどエネルギーみなぎる人もいるがぼくは逆だ。
金に思考を占領されないように。強大な宗教でそれを無視することはそうできないわけだけれど。
やらされる、やらなければならないことほど退屈なことはない。純粋に楽しむことを忘れたら遊びを仕事にする人間の先はない。発端も狙いも金じゃないのだ。金であったらそもそもカヌーを選んでいない。金が欲しいなら最も実はお高い自分の時間を街に差し出せばいい。金はあくまで社会システムに乗っ取る上での手段。金よりお高い人生なのだ。
「稼がねば」、より、「楽しまねば」という情熱こそが人を巻きこんでいくはずなんだよね。

好きなことで暮らす本当の意味を考えるには夏より断然冬なのだ。

2017年12月2日土曜日

チーズケーキとカヌーと氷濤と、人

【おいしい】の唄
おいしいっていうのは際限ない
おいしいをもっとおいしくするためには‥

楽しいっていうのも際限ない
楽しいをもっと楽しくするためには‥


ぶつくさと
あーでもないこーでもない
思考が栄養

なにができるだろう
どこまでたどり着けるだろう

誰かのおいしいを味わって拡がる世界
自分のおいしい

増やすも減らすも深めるも諦めるも
ご自由にどうぞ


舌と心が喜ぶものを取りこんだなら
なんだか新しい世界を生み落とせそうな最高の気分さ





夕日を写していると座敷童が映った。

複合的にあれこれ考えると、脳みそが止まる。キレのないふにゃふにゃ踊り。
自分で言うけれど、たったひとつのことを突き詰めさせると能力を発揮する。偏向性、狭さだけが深まるための武器である。好きだけ選んでこうなった。
なんせ、器用じゃない。

手を出すなら本気でないと。本気になれることだけ選んでやってきた。
手を抜くなら、最初から手を出さない方がマシ。
試されるよな、冬には毎度。

2017年12月1日金曜日

『川を歩いて、森へ』天野礼子

まさとし目利き書房より。

カフェが繁盛していると、読書ははかどる。カウンターから身動きがとれないときには本を読む。知的好奇心を満たすためにもいらっしゃいませ。


中央口論新社。
2017年2月。

闘うアマゴ大好きガールの人生の記録。魚が好きで、その魚のいる川が好きで、川を川でなくす輩や政策に体当たりしていくうちに、サケのように川から森へ導かれていく。
何度死にかけても川の神様に生かされてきた。
脳動静脈奇形という、10万人に一人の血管異常もなんのその。それがしかも物書きの最も大事な「言語」と「思考」にかかわるところにあるのは100万人に一人くらいの確率らしい。
タフな心はそのへんからも起因しているのかもしれない。そんなこともあっけらかんと、カミングアウト!という気もなくさらっとしちゃうあたりも、潔い。男前だ。見習いたい。

開高健さん、野田知佑さん、ニコルさん、辰野勇さん、菅直人さん、鳩山由紀夫さん‥そうそうたる登場人物たち。

『わが日本には、三万本もの川がある。‥三万本もの川を狭い国土に持つわが国は「川の国」であると言えるが、また多くの森を持つ「森の国」とも言え、四方を海に囲まれる「海の国」とも言えるだろう。』

出だしから考えた。
ぼくはいったい何本の川を知っているだろうか。

p.191『「森は海の恋人」であったが、「海もやはり森の恋人」だったのだ。川は、森と海の間をとりもつ"キューピッド"にちがいない。』
日本の自然という全体の個とをぼくは何も知らない。