2017年7月7日金曜日

越境者 where is my hometown


幸せだったなら、満ち足りていたならば、
多分そこから人は動かない。


少ないなりに持ってはいたものに嫌気もさして、十年前のぼくは未知なる大地に何を期待したのだろう。
「あらゆる物事」から逃げ出す口実ともいうのかもしれない。

家族はいない。一度だって足を踏み入れたこともない思い入れも思い出も何にもない土地。親戚はいない。友だちもいない。車もない。何にもない。ここはどこだ。よりかかれるものは、ただひとつ。カヌー。
とにかく、カヌーがあれば、カヌーに乗れるようになりさえすれば、ここにいる意味が見い出せる。ダブルパドラーは必死だった。何でシングルパドルの業者に来てしまったのかと後悔し通しだった。「ジェイストローク死ね」、と何百回思ったかしれない。

女の人と積み重ねる愛は、強いが脆い。愉しいが恐ろしい。勝手に始まり、やはり、勝手に終わる。
しばらく御免だ、というかそこから逃げ出すところが、シングルパドルの始まりでもある。「あらゆる物事」というとカッコ良いが、要は「女の人」という絶対的存在からの浅はかなる逃避行である。

カヌーは自分が逃げ出さなければ、いくらでも心を開き、導いてくれる。
奥ゆかしく言葉少ななのも良い。

いつしか、カヌーは新たな恋へも導き、しかし、それは普通宗教への改宗を求めてきた。
ぼくが欲しかったものは条件付きの愛ではない。ぼくは改宗できなかった、しなかった。
ぼくがカヌーを手離したなら、縁もゆかりもないこの土地にしがみつく理由が何にもなくなってしまう。カヌーのない暮らしは恐怖そのもの。

愛とカヌーがまたも天秤にかけられた。

やはり、カヌーが勝つ。
「人の心」より「ぼく自身の心」をこそぼくは一番大事にしているのだと改めて気付いた。昔からずっと軸は変わらない。

カヌーを漕ぐぼくごと愛してくれない人と恋に落ちるのは時間の浪費だとこの恋は教えた。時間は有限。楽しいだけの恋はもういらない。
拠り所がカヌーだけであることが少し心細くなってきた頃、コーヒーというもうひとつの心の拠り所を手に入れて、ぼくは心の平穏を得た。
コーヒーもやはり、裏切らないところが好きだ。

カヌーは、生きる意味だ。都会人が文明に奪われた「故郷」・「土」の代わりに与えられた大事な道具。

ぼくのすべてをまるごとすっぽり愛してくれる深い湖を何とはなしに、待つでもなく、待ち望んでいた。

愛から逃げるためのカヌーという道具は、いつしか、愛を見つけるための道具になっていた。
ちゃんちゃん。

今日も素面だよ!どこまで嘘か考えながら読んでみてね。

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