2017年3月31日金曜日

11月と似ているけれど空の色が違う

久々、除雪。降ったなあ。転がる車、轢かれたシカ‥
命あっての、支笏湖線。
支笏湖に関わる人間たちのタイヤ交換は毎年GWが終わってからです。

ツアー準備がてら下見へ。


like a heaven.




今冬最初に見た雪の日を思い出した。
今年最初の白い花(2016.10.30)


とにかく、笑えています。

2017年3月30日木曜日

今日は冬

春と冬が交互にやってくる三月。


当たると最高。外すと‥。
先日の、当たり日、川岸清掃時の一コマ。

振り返ってみると、千歳川や美々川は漕いでいるけれど、支笏湖には新年の挨拶すらできていなかったような‥。
新年事始めが川岸清掃なんて、いいことありそうだなあ。

店とぼくをつなぐ首輪の効力が切れるのもあとわずか。うふふふふー。
お空の下で音量気にせず思いっきり働くのよー。

2017年3月29日水曜日

今日もやっぱりなんでやねん


やっぱり言えないなんでやねん。


接客、なんて奥深い世界だろう。
支笏湖より深いかもしれん。

つまらないときはつまらない顔をしてしまう質である。苛立っているときに笑顔はない。人の好き嫌いは結構ハッキリしている。気分にもムラがある。一貫してひねくれている。長いものが大嫌いだ。
まあ、ひと癖どころではない。穴だらけの未熟者である。
しかし、その短所は長所ともなるわけで、なるだけ面白い方がいいだろうとの思いもあり、矯正する努力もしてきていない。

そんなわけだが、店にいることで忍耐という術を学ばせてもらっている。
忍耐とは、即ち笑顔だ。何を思おうと、笑顔をつくれれば、場は保たれる。しかし、心を欺くことは非常に困難ではある。

あーだこーだそーだ、最善を尽くす。引き出しを増やしていく。

できないから面白いのだ。心を隠す練習を反発せずに面白がれるようになるとはなあ。

2017年3月28日火曜日

ワークライフバランス


昨日はワークワークバランスについて考えていた。
今日はワークライフバランスについて事業主さんたちと意見交換。



本屋を歩き回り見繕った一冊。
『もっとおいしく、ながーく安心 食品の保存』監修 徳江千代子 朝日新聞出版

2017年3月27日月曜日

久しぶりの外仕事


今春一番のベタ凪をよだれを垂らしながら眺める。
眺められるだけマシと言い聞かせる。ケーキ焼くつもりだし、コーヒー淹れて、掃除して…いいときに動けない、漕げない、なんて不自由だろう。
しかし、大人だから、何でもないさと心を諭し、装う。己の役割を放棄するわけにはいかない。ぐっと堪えるのだ。笑顔で見送るのだ。感情を表に出さない方が、深みも出るんじゃなかろうか。

人が来ようと来まいと、勿論来てもらうに越したことはないが、店ならば、いつでも開いていて欲しい。ドアの前でがっかりした人をイメージするとやるせない。
いつも何でもないように人を迎えるために、毎日維持をするためにすべきことが意外と多いことを知るのは店に立つ人間だけ。

しかし、季節は春。カフェ一本で稼ぐ冬ではない。

ぼくの中のワークワークバランスがせめぎあう。

二つを同時に愛することはなかなか難しい。

しかし、行かねばならぬこともある、だってここは、カヌー業者。
熱中してきたカフェは実は副産物。気持ちは副産物の域を最初から越えている訳ではあるが。
申し訳ない気持ちでopen看板を裏返してclosed。

しかし、矛盾と書いて人間と読む。

あたたかな日に外で働くのは非常に気持ちが良い。
冬の間こもるだけに余計に眩しい。身体いたいダヨ。

たんたん、どるふぃん、なおきさん、さくちゃん、かちさん…氷濤陣との作業すら新鮮。みんなの日常は今のぼくには懐かしい、新しい。
たった二冬、されど二冬。
主観と客観で、熱量が変わるのは当たり前。寄り添うことも難しくなる。
カフェの冬はふっくんとぱくちゃんと、ぼくらの宝物。




2017年3月26日日曜日

乗れる人、乗れない人

カヌーツアーは予約優先。
店ができたことで、ふらりと立ち寄った方が、そのままカヌーに乗れることも場合によっては起こる。拠点が、新たな物語の展開を生み出す可能性をもたらしたわけだ。


(2013.5.9.長きにわたったちゃらんぽらん思春期)
居場所が温泉街にできるまでは、ツアーがあってもなくても、こうして、いつも、湖にいた。
もう、戻らない、ひとつの幸せ。
では、不幸せになったのか?というと、身動きの取りづらい忙しさもまた、ひとつの幸せと思えるようになりまして。ほんの少し前のことですが、振り返ると、ぼくなんざ、誰にも何にも言えません。

子どもの成長を期に、離れ離れになる家族の、最後の休日。
ふらりと、久しぶり、カヌーに乗れるかな。乗れなくてもまあいいか、天気も良いから、とりあえず出かけよう。支笏湖に行こう。

ガイドはガイドで、最後の休日に支笏湖でのカヌーをイメージしてくれたことを喜んでいました。

運次第、乗れる人、乗れない人、います。誰のせいでもないのですが、選ばれる人、選ばれない人、います。誰に案内されるかで、得られる感覚も別物です。
店に立っていると、そういった神さまみたいな人のイタズラ心の不思議をいつも感じます。
乗りたくても乗れない人、乗る気がないのに、乗ることになった人、‥いろいろ起こります。たった一分、いや、三十秒の時間差で、乗れる人、乗れない人が分かれる場合だって出てきます。

生きている間にカヌーに出会う人は、世界人口何億のうち、さて、一体どれくらいの確率だろうか。
出会うだけでなく、さらに心震わせ、気持ち良さに身を焦がした人は?
また漕ぎたいと、何でもない仕事の合間にふと考えている人は?

水の上にあるモノを知ってしまった人には、離れ難い世界です。


2017年3月25日土曜日

まだ降るよ、雪

午前、雪。しかし陽光で溶ける溶ける。

冬の靴と夏の靴のお手入れ。ありがとう、と、よろしく。
皮用ワックスぬーりぬり。今年はどの山にいけるかな。


左 ダナーのダナーライト
右 ソレルのカリブー。シャイアンレースフルグレインに押されてあまり出番がなかったが。

そうそう、この冬の間はほぼシャンプーを使わなかった。肉体労働時にはさすがに厳しいだろうが屋内労働なら問題なし。
いつの間にか刷り込まれている常識。「髪はシャンプーをするもの」
意外と、なくてもなんら困らない、というのはよくある話。

右に習えば正解…とは限らない。
何が、誰が、大切か、見誤らずにいこう。


2017年3月24日金曜日

尾道が支笏湖になった日


いい意味で。世界は狭い。遠いところなんて本当はない。行きたいと思えば。
一月前、共同、共働生活をしていた少年は、名古屋から自転車で尾道へ行ったそうな。

自転車とかカヌーの速度に馴染みがあるから、車の速度はめまぐるしすぎて、まわりの景色に見とれたりなんだり、気付くとのんびり走っている。
余談だが、遠藤ヤットもノロノロ運転だという。
マイペースは、顔に起因するのだろうか。

そんな理解されがたい感覚について初めて共感者が現れた。

少年だった。ぱくちゃんである。


photo by 安達茉莉子さん。

少年は尾道で仕事中の作家・安達茉莉子さんと支笏湖・氷濤まつりぶりの再会をしたそうな。
これから今治へ走るところ。

人間、出会う人には出会う。何度も。

こちらでは、湖でのツアーも動き出し、カヌーの話が日に日に増えてきている。先の予定を詰めてみると、あっという間に11月になる。なるだけ詰めこんで濃密な時を過ごしてやりたいものだ。


旅について。
『星の巡礼』パウロ・コエーリョ
p.44 ペトラス 
旅に出る時は、われわれは実質的に、再生するという行為を体験している。今まで体験したことのない状況に直面し、一日一日が普段よりもゆっくりと過ぎてゆく。ほとんどの場合、土地の人々がしゃべっている言葉を理解することができない。つまり、子宮から生まれてきたばかりの赤子のようなものなのだ。だから、まわりにあるものに、普段よりもずっと大きな重要性を感じ始める。生きるためには、まわりのものに頼らねばならないからだ。困難な状況におちいった時、助けてくれるのではないかと思って、他人に近づこうとするようになる。そして、神が与えてくれるどんな小さな恵みにも、そのエピソードを一生忘れることがないほどに大感激したりするのだ。



2017年3月23日木曜日

睡眠欲とカヌーシュー

久しぶりによく寝た。
読書熱が高じて、睡眠時間が削られていたようだ。パウロ、おっそろしいな。
どうやら、「11分間」という作品がぼくの目に触れたのは、パウロ好きであることが判明した「大和田慧」(24時間シンガーソングライター。)さんが元々のきっかけだったようです。

彼女は全部を読み終えてしまうのが寂しいので、ちょうど良い時期がきたときに、一冊ずつ大切に読むようにしているらしく、それを聞いてぼくは、少しというか、相当急ぎすぎていたことに気づきました。精神世界の話をするには「みよしの」ほど適したところもありません。
あと二冊、未読のパウロが手元にある(「ブリーダ」と「ポルトベーロの魔女」)のですが、一度落ち着こうと思います。暴走をとめてくれてありがとう。恋は盲目。
三月の20日間でパウロ8冊。この狂気を違うところにぶつけなければ。


今冬は「カヌーシュー」(造語)を楽しんだ。
カヌーシュー=カヌー+スノーシュー。
ぼくはカヌーも歩くことも好きだから、どちらも諦めたくないので、ふたつの楽しみを同時に味わってまえ!というわけです。

「二兎を得るものは二兎を得る」のです。
カヌーも山も自転車も歩きもランニングもコーヒーもお店もツアーも千歳川も支笏湖も書くことも、全部、ぼくは全部、諦める気がないのです。

カヌーでしかなかなかアクセスできない場所まで川を下りつつ、気になるポイントで上陸。カヌーは置いて、積んでいたスノーシューを履いたら人っ子一人いない裏山を散策するという、あれもこれもしたがりにはうってつけの遊び方。夏より快適に歩けるし。


ダウンリバー&リバーサイドウォーク。
欲張りな人には最高ですよ。気になる方はご一報。

次の日は、それぞれの千歳川。


兎にも角にもカヌーに一途な松澤代表。


静止画でも漕ぎ方に個が出ます。

カフェ終了まであと二週間ほど。完全なる冬の終わりは、ぼくにとって、カフェの終わりなのです。


2017年3月22日水曜日

どるふぃんおかえり


湖から離れられない男もいる。
ぼくはヘタクソだったけれど、今思えば違うやり方があったのかもしれないけれど、結果的には本来収まるべきところに収まったからめでたしだよな、と思うこととする。

「愛は永遠です。変わるのは人間ですよ。」
『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』パウロ・コエーリョより
変わるところにあったのは他でもないぼくだったのだろう。

光がまわりに多い。いや、強い?
その光がまるでぼくに当たっているような気になることもある。
逆に光が輝けば輝くほど、闇が際立つこともある。
どんなに奮闘しようとも、frontierしか存在は認識されない、もしくは軽視されるのが常。小判鮫か何かだと思っている人も少なからずいるだろう。不当な態度や扱いを受けると主婦一揆起こしたくなることもある。
ぼくはぼくの誇りをもってやっている。
精神は店のおかげで自立した。
とるに足らない程度に二番手の憂鬱というやつもなくはない。
よきも悪きも幸せの沸点が高くない。生きているだけで奇跡だから。
夢はすでにいくつか叶えている。頭を下げずに好きなことで稼げている。しかし、人間、幸か不幸か立ち止まってはいられない。
元々担げもしなかったカヌーが夏の確かな糧となり、暮らしの中に農を取り入れ、旅ではなく暮らしに埋もれたくなり、憧れの平屋に出会い快適な住処を得て、何にも気にせず燻製の腕を磨けるようになり、新たな刺激を得るため山へも向かい、趣味でもなんでもなかったケーキをつくれるようになるため必死になり、責任の狭間に泣き、自分だけのコーヒーを公にすることにして、冬も夏も稼ぎの手段にしたら舌はブレが少なくなり、繁忙期には助っ人がどこからともなく現れてくれて共働し、たまに確認したくなってアホみたいな新聞を書いて生きた証とし、特定少数の心に届けて、
さて、これから。
何にのめりこんでいくのか。いけるか。ここから。ようやくサビに入るところかなあ。

2017年3月21日火曜日

軽さは正義だ


意外と賑やかな一日。
期待せずに期待しながら、待ちつつ、待ちすぎず、マイペースにやることをやる。早くカフェに引導を渡したい。終わることが分かっているのに大事に生きることは難しい。
「どうせ」。どうせもう終わるのだから?どう過ごす?

そうか、だから、ぼくらの命はいつ尽きるか分からなくなっているのだな。生きるモチベーションは「おしまい」があってはならない。なるほど。

カヌーガイドたちは、ツアーの準備とフィールド調査。
お金にならない、むしろお金をかけた多くの時間や行動により得た経験を身に纏って案内するツアーは、湖の場合1ツアー4500~6500円。たかが遊び?高いか安いか。

札幌でライブをするために東京から来ていたある歌うたいが最終日は支笏湖に来たらしい。
相棒にぴあのではなくギターを選んだのは、どこにでも行けるから。
選んだ理由がなんだか、らしい。

この世界には、唄って生きている人もいる。
どんな生業だろうと、その人がそれを本当にやりたいと思いやっているのならば最高。嘘つきは自分に悪い、周りにも悪い。
気持ちよさは共鳴していく。

執着せずに愛すること。
たかのてるこ著『ダライ・ラマに恋して』のカルマが言っていた。

2017年3月20日月曜日

ほーりー誕生日!

数年前、新宿、花園神社。野外演劇。富士山に登った日の確か夜。『天保十二年のシェイクスピア』椿組。
どうしても観に来てほしいとある人に懇願されて。


SP Thx 高田さーん!

中学生の時、誰それが手を繋いだどーのと夏祭りの舞台地だった場所で、
好きなことをしている人たちが目をギラギラと、生命を燃やし尽くして舞っていた。
スポットライトのあたる場所に酸素があるかのよう。
その中にβがいた。輝いていた。見直してしまった。尊敬してしまった。
役者たちは皆、俺らは好きなことやってるよ、あんたらはどーなんだ?と客席に強烈な投げかけをしている気がした。くらくらした。はやる心を抑えるのが大変だった。

その頃、ぼくは一度手にしたパドルを手離していた。パドルを手にするために手離した恋は、パドルを手離したら、ぼくが手離すより前に離れた。早口言葉みたいだろう。
また握れる日を夢見ながらーしかし、あまり、夢見すぎて苦しくならない程度に控えめにー、夢に戻る前に解決すべき問題に取り組んでいた。

どこで水を得るか。はなから得る水がない人もいる。
気づかない人も、気づかないふりをする人もいる。気づいているのに踏み出さない、踏み出せない人もいる。
βは舞台で輝く。
大和田慧さんは唄うとき。代々木のアンコールワットではない。

思い出したのはカフェ一年目の冬の夜。
ファンキーな東京からのおばさんがバスを待つため時間を潰していた。その人の熱中対象は音楽だという。音楽に熱を持つ人は多い。しかし、あなたはなぜカヌーだったのか、支笏湖なのか?
ぼくの直感がこの人は通ずると判断したので、誤魔化さずに話した。

『…本当に好きなのね。目の色が変わった。…』

そう言われるまでぼくは本当に夢中で恋の歌を唄っていたので、文字通りふと、我に返りハッとして、少しの気恥ずかしさを感じたが、ファンキーなおばさんとの精神についての会話は続いた。

好き、という狂気。この過剰なエネルギーをぼくはコントロールするのが難しい。いつも呑まれるだけ。委ねるだけしかできない。情熱は波だ。引いては満ちる。
支笏湖、千歳川、カヌー、これがもう、強烈な狂気を与え続けてくる。ここだと、一点にいながら世界中どこにでもいける。
最初の頃は、この狂気だけがツアーでの武器だった。無敵。怖いものなんか何もなかった。一点しか、自分のことしか興味も関心もなかった。若さのせいではないと息巻いていたが間違いなくあれは若さだったのだと三十を前にして思うが、狂気が衰えたかというと、発現方法が変わっただけである。

2017年3月19日日曜日

カフェとカヌー


店にガイドが帰ってきた。
二刀流シーズン。

できることをできる人がやる。やりたいことをやりたい人がやる。できるようになりたい人がやる。
循環。
さて、どんな年にしてやろうかな。

2017年3月18日土曜日

『ヴァルキリーズ』パウロ・コエーリョ

パウロ6冊目。
自らの体験を描いた『星の巡礼』の続編。
今回の舞台は砂漠。パウロだけでなく妻クリスも登場。クリスがまた魅力的な女性で目が離せない。

『ヴァルキリーズ』パウロ・コエーリョ 訳 山川紘矢+山川亜希子 角川文庫

あの歌声は、眼差しや微笑みは、強さは、パウロ作品の主人公(だいたいが女の人)たちに通ずる気がする。今夜はステップの青い空の下にトリップしていた。『ザーヒル』の舞台地である。
何かや誰かに身を委ねる気持ちよさはなんだろう。涙に意味なんてない。
本の中と現実とが結ばれたような。遥か昔から人間が表現し続けているものは、愛以上でも愛以下でもない。
ぼくにとって、カヌーは技術云々で乗りこなすというより、もっと揺らぎのある存在としての側面が強く、言葉の届かない、感じることでしか辿り着けない世界へ導いてくれる替えのきかない道具。
エクスタシー、恍惚感をカヌーほど味わえる乗り物をぼくは他に知らない。
カヌーにぼくが求め、カヌーがぼくに与えてきたものについて、誰かと共感できたことはあまりない。
その思惑は誰にでも伝わらない、気づかれない、理解もされ難い。しかし、確かにそれは起こりえるはずなのだ。誰にでも。
ぼくはその世界に到達したい人がいたなら、最善を尽くしたい。知らずに死ぬにはもったいなさすぎるから。
アルコールや女の人、クスリ、セックス、世の中には色々あるけれど、愛するきれいな水があれば、それだけで決まることも時にはあるということを。





2017年3月17日金曜日

偏愛道具学26 もう悩まない冬アンダー



長年悩み続けてきた冬遊び(ボード、スノーシューハイク、春秋冬のカヌー)のアンダーウェア選びの際の救世主が現れた。
なおきさんが1シーズン先に手を出して使い勝手がよいことを聞いていたため購入検討リストに上がった。

パタゴニアのメンズ・キャプリーン・サーマルウェイト・ワンピース・スーツ。
168センチ、60キロでSサイズ。

ワンピースといえば、気になるのはウンコ。
しかし、コイツには腰まわりにチャックがあるので、上半身を脱ぐことなくウンコができる。ワンピースだからめくれない。肌触りもよい。アンダーの割にはぴたっとしすぎないルーズさはシビアな人には受けが悪いかもしれないが、パンツいっちょならぬワンピースいっちょになっても威厳を保てそうな、好みのフォルムである。
なんといっても通気性が絶妙。

他のメーカーもワンピースはあるにはあるが色は黒が大半。バリエーションの少なさはニーズが少ないからだろうか。パタゴニアは黒以外のチョイスができるので愉快な気持ちが得られる。
冬が長い地域に暮らす人なら損はないアイテム。


下半身はこの上にアウターパンツだけでどこでも行ける。
上半身はパタゴニアR1(+フリースベスト)+アウター(ファイントラックのバリオ→冬のカヌーや、スノーシューハイク時等。パタゴニアのパウダーボウル→ボード)


湖畔の野郎共が動き出した

冬の間、朝から夕方までずっと店といた。
人に疲れ果てる賑やかな夏、惑わされずに店と愛を深めるマイペースきわまりない冬。
過去と未来のような真逆の方向性を一点で味わう。wonderは尽きない。
どれだけ顔を付き合わせても、人は人。期待通りになることはなく、思い通りになったらそれはそれで面白くもないかもしれない。自分のことは唯一思い通りにできるのだから自分で表現すればいい。むしろ期待が失望を生む。反比例の法則。
しかし、期待をしなくては無関心。これは愛の対極にあるものだとマザー・テレサは言う。まわりに無関心、とはなりたくない。どうでもよい人に囲まれた場所にいる意味は何にもないのだから。それが楽だとしても。
ぼくは関心を持たれたいし、楽をするために生まれたわけではない。誰だって特別だと思いたいはずだ。ほどほどはぼくには難しい。好きかどうでもよいか、だ。

なんでやねんは、まさにそのときには出ない。
一点に集うのであればクリエイティブで良き領域以外のモラル的共通認識は多いに越したことはない。

2017年3月16日木曜日

それぞれの千歳川


昨日漕いだ千歳川と今日の千歳川はまるで別人。
風が立ち、枝が折れたのは、切り替えろよ、の合図。それでもウールの靴下はぬれてもあたたかく、ぼくの味方だ。

支笏湖は仕事。千歳川は暮らし。いつもそっと寄り添うように。

同じ場所、同じ乗り物、同じ空気、あらゆる「同じ」を共有して、ひとつの川に浮かんでいても、個は個。交わっているのと擦れ違っているのは、違うようで実は大差ない。

一年中同じ仕事をしていたら、もっと磨かれるのだろうか。さらに先がどんど、開けていくのだろうか。展開は二倍。年数を重ねるごとに、きっとそれはさらにさらに拡大していく。
時を止めねば。忘れないと前に進めない。

または、飽きるのだろうか。もしくは熟成されることもあるが。

しかし大抵の人は同じ仕事をしている。

これから、というところで寸止めされるような。これをしたらどうだろう、あれは?…タイムオーバー。
二兎を追う者は…なのか。後ろ髪引かれつつ、夏も冬も終わる。あともう少し。その思いはもう一方には残酷。足を引っ張り合うのではなく、相乗効果を狙いたいものだ。
自由の後遺症が高くつくのは毎春承知の上。

2017年3月15日水曜日

ハンノキ花粉、風に舞う?

氷濤まつり制作陣の他地域氷まつりの視察土産。
こちらは、よく間違われる層雲峡の氷瀑(ひょうばく)まつり会場で配られるポストカード。
支笏湖氷濤(ひょうとう)まつりの場合は何種類かのポストカードを選べるそうで、そのポストカードは『支笏ガイドハウスかのあ』の松澤さんが制作しているらしいですよ。

ぼくが「おいしい!」と納得しているものを食べた人が「おいしい!」と感じるって、何でもないようでまあ奇跡的だよな、と。おいしくないと思われても誰も悪くないし。ただ、相性とかその日の出来とか出会いのタイミング次第のところもあるし。共感を求めるためだけで店主が店に立つわけではないと思うし。
舌で共感できる人とは皆友だちになれる気がする。


去年の春に判明したのだが『花粉皮膚炎』というのが世の中にはあるらしく、ぼくの身体は今年もハンノキ花粉に反応し出しているような気がする。花粉でなければ、雪解け時期にいつもより多めに発生する埃が刺激となることもあるそうだ。just now!
首や目元まわり、顔面の乾燥。たいしたことなさすぎる痒み等等。慢性的な眠気は春だからか?冬の疲れか?いつもか。

通年ではなく春または秋にのみ生じるのも特徴。
アトピー性皮膚炎の人はなりやすいらしい。

そういえば、小学生の頃はアトピー性皮膚炎に悩まされていた。都会人らしいだろう。しかし、家族ではぼくだけだった。目が悪いのもぼくだけ。悪いものを全部引き受けたわけだ。ワガママが通る代わりに。わはは。
アトピー性皮膚炎はいつの間にかフェードアウトしていったけれど、何で治ったんだろう。
食生活(変なものはそうそう食べず)も環境も何ら変わらなかったのだが。
感じやすいのは心だけでもなかったんだなあ。

様々なアレルギーの人向けのお菓子屋さんもこの頃は見かけるようになってきて、ジャンル問わず、マイノリティが尊重されていくのは歓迎すべきことだよなあ、と。
そばアレルギーになりたくてそばアレルギーになる人はいないのだから。
誰もが尊重されなかったら、民主主義とは名ばかり。


2017年3月13日月曜日

『星の巡礼』パウロ・コエーリョ

パウロ五読目。『星の巡礼』パウロ・コエーリョ 訳 山川紘矢+山川亜希子 角川文庫
自伝的作品としては初。感覚で生きている人には不思議はないが、まともな人にはついていき難いかも。


「私はただ、道の道具となっていた。道は私を本当に「歩かせて」いたのだった。」

2017年3月12日日曜日

灰降る国の文通相手


自宅のポストに手紙を見つけたときの高揚感、あれは何度味わっても心、躍る。


見たくもない人の、知りたくもない情報の渦に暇さえあれば、一日中時間をつぶせてしまうヘンテコな世の中。使い方やモラルも人それぞれ。
面白いこと、楽しいこと、悲しいこと、全部、ぼくは直接聞きたい。

ノイズから耳を塞いで、手紙を書くよ。

こっそり、公にはできない、晒さない本当の気持ちを、内緒話をしたためる。
人が書く字は、嘘をつけない。悩んでいる人の字は迷うし、調子が良いときは字体も勢いづく。

それぞれのペースで、気が向いたときに。義務と人目の枠の外。物理的距離を埋める唯一のスロウコミュニケーション。
手間を惜しんでも伝えたいものがあり、人がいる。

数なんて、いらない。誰でもよくなんかない。
とにかく、ゆっくり、たっぷり、丁寧に味わいたい。

これこそが、「文学」ではないか、と思う。

手紙より拝借。
『本当に大切なことは、いかにたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心を尽くせたかなのです』
マザー・テレサ

うし、尽くしてこれている。尽くしていくぞ。今まで以上、すべてに。

2017年3月11日土曜日

after 3.11 あれから6年


2011年、あれから丸6年。
赤ん坊だったたいちは今年、小学生になる。

何も色褪せていない。忘れてもいない。あの日から世界の色は変わったまま。すべての日常に3.11が馴染んでいるのだから忘れるはずがないんだよ。
なんとなく生きるのは誰にも失礼だ。あの世にもこの世にも、恋人にも仲間にも。
せっかく生きているのだから、好きなことをするよ。我慢するために生まれた訳じゃないのだから。楽しむために生まれたのだから。無駄なことをしている時間は実はあまりない。
急がないと。死んでしまうまで。いつ途切れるかは誰にもわからない。

どうせだから、心のままに。

ワハハ本舗のβ(ベータ)生誕日。おめでとうも忘れずに。

2017年3月10日金曜日

初めてのレアチーズケーキづくり


人生29年。まだまだ初体験がいくらでも残っていることに感謝!

まつり中、助っ人ぱくちゃんとレアチーズケーキも食べたいね話をしていたのです。焼かずに美味しいとか最高やん、と。
で、先日、あるものを提供いただき。…はっ、これはレアチーズケーキにそろそろ着手しなさい!との神のお告げに違いない。…いや、神は神でも神より偉い大上さんのお告げ。


氷濤まつりを卒業しても変わらずにぼくのことを愛してくれて、いやはや、やっぱり神より偉い!

氷濤まつり解体作業は半日で終了。皆さまお疲れ様でした!
ここから一気にカヌーモードです。


2017年3月9日木曜日

春にわく

3月1日から始まった氷濤まつりの解体作業は明日がラストとのこと。ようやっと、本当の本当、まつりが終わります。


ソレル/シャイアンレースフルグレイン。カラー:365Sage, Sanguine
今冬大活躍ブーツもやはり、ソレル。カリブーより滑らず、軽い。暖かいし、カッコ良し。

あたたかくなると、どこからか人がわいてきます。虫もわいてきます。
先日、レイクビューの窓に今年初のカメムシも見つけました。春の陽光を浴び、気持ち良さそうに歩いている様子をぼくは微笑ましい気持ちで確認しました。
程なくお客様がレイクビュー席に着席。気づかないといいなあ。注文を終え、提供。程なく、「すいません」の声。
何だろうと本から顔をあげるとお客様がカメムシを指差しました。日本語は、日本人は上っ面の言葉ではなく行間を大事にする民族です。
言葉をはなくとも、お客様が何を言いたいかはもうお分かりですね。

「カメムシいます。嫌です。邪魔です。どけてください。臭くなるなら殺生願います。ここ、飲食店ですよね」

ああ、なんてこった。でも納得もしています。大多数、普通の感覚でしょうから。
ぼくはカメムシの命を救う方法を模索しつつ、臭くならずに捕獲する技ーしかし、ここは信頼を得るためにも迅速に被害を食い止めるべくガムテープを手に取りレイクビュー席へ。君がクモなら救えたのに。

アーメン。
今、この状況で君を守る術をぼくは知らない。
お客様が店に今求めていることから目を背けることなど…


自分の旗を掲げている人は、時間の無駄でしかない、非生産的な問題ごとでいちいち悩まない。見ている先が、目指しているものが、実現したい世界のことでいつでも頭がいっぱいだから。
健全とはまさに。いくら確定申告で苦しもうとも。信念は折れない。

ぼくなんざ、少し手が空くとそれまで息を潜めていた人生への問いが降ってわく。穏やかな陽光にそぐわぬ、冬の支笏のような心向きとなる。
いっそのこと愚鈍になりたい。いや、それは勘弁。対処法は分からなくもないのだ。

2017年3月8日水曜日

36の物語


36。去年、新規開拓したお店の数。未知との遭遇の数。店の数だけ思いがある。その思いに触れた数。おいしかったお店、また行きたいお店。二度と行かないであろうお店、色々ある。
なくなってしまったお店、ひとつ。

男らしさも女らしさも大事だとコート・ドールの斉須政雄さんが『厨房という戦場』で飲食向きの人間について書いていた。

確かにそんな気がする。押しすぎず、引きすぎず。強すぎず、弱すぎず。主張せず、しなさすぎず。待たず、待ちすぎず。力だけでも頭だけでもなく。
中途半端といいあんばいの境目は複雑きわまりないが、しかし確かに存在する。

強さをただ出せばよいわけではなく、やわらかさで包む必要がある。柔らかいだけなら多分やる必要性がない。
ドアを開けた人を等しく歓待するようなるだけ努める。なるだけ。できない、ことがままある。なんだそれ、が顔に出てしまうのを必死に押さえる練習も時に必要だ。ひとりのときは余計に。厨房に逃げられないのだから。
ずっと、なんだそれ、をなんだそれ、としてしか扱ってこなかったぼくには多分、特に。


修道士「僕たちは他人の人生をとやかく批判してはならない。人はそれぞれ自分の痛み、自分の諦めしか知らないからだ。自分が正しい道を歩いていると感じるのと、自分の道が唯一の道だと考えるのはまったく別のことなのだ。」
『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』パウロ・コエーリョ

2017年3月7日火曜日

『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』パウロ・コエーリョ

四作目。『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』パウロ・コエーリョ 訳山川紘矢+山川亜希子 角川文庫

しつこいだろう。これでひとまず落ち着くよ。悲しいかな、手元にある未読のパウロ本が途絶えてしまった。今までの中で最も宗教色が強いかと。
しかし、なんというか、ぼくは無宗教者なのだけれど、「大いなるチカラ」的存在は常に感じながらやってきていて、そういった流れに抗わずにここぞなタイミング(パウロさんは「魔法の瞬間」と表現)を掴む能力においては自分の感覚を昔からずーっとテレビより世間より他人より何よりも非常に信頼していてそのおかげで「今」があって、パウロさんが言っていることの意味が非常によく分かるのだよなあ。
何で?という発言が四冊目だけれど、まだ一度もない。

水について。
修道士『僕たちは水の中で発生し、九ヶ月間、水の中で生活する。水は女性の力のシンボルなのだ。その能力は、男性がどんなに完全な人間であろうと、手にすることができない力なのだ。』

「闇」、「他者」というフレーズがひとつのキー。
それらは=社会的常識・人の目に縛られて抑制している自分。
それらからの解放、つまり、愛のお話。
対比として「心の中の子ども」がいて、それが嘘偽りない自分の心。

ある儀式について書かれていた。

同じ種類のある時間にぼくは飛んでいた。官邸前でtranceした夜のこと。
after 3.11
ぼくらは悲しみと怒り、あらゆる感情を解き放った。ぼくは音になりコンクリを強く踏み鳴らし、呼吸さえも音にしてー笛を吹き続けた。まわりのみんなとは言葉なんて介さずとも(ドラムの音で聞こえないし)目を合わせるだけで何を思っているか互いに完全に分かり合えた。奇跡のような夜だった。
言葉を持つ前、様々な感情を、ぼくらは踊り交わして分かち合っていたにちがいない。
三月の夜は、暑かった。

また、3.11がやってくる。
一年後、叫ぶことしかー踊るくらいしかできなかった。説得力が足りなかった。
六年後、何かひとつくらい形のあるものを守れるようにはなっただろうか。





2017年3月6日月曜日

何でもない日の贈り物

季節の変わり目。春と秋は空気が入れ換わる時期。太陽が少しずつ割合を調整しているのだろう。
去年の春は確か肌が乾燥しまくったし、秋は眠すぎた。
天気の良し悪しや気温や湿度パワーに思いっきり影響を受けてしまう。昔からそうだったが、どんどん酷く…言い直そう。どんどん感じやすくなってきている気がする。
場所柄?仕事柄?研ぎ澄まされていくより他にない環境にあるのは確か。
夏も冬も激しいけれど安定はする。春はやはり不安定でまた猶予もまだあり、ひねくれ者には眩しすぎるのか何だか毎年厄介だ。すべてが動き始める予感は嬉しいけれど、ぼくの脳みそや身体や心はなかなかそのスピードについていかない。まあいいか。焦らず慌てず迷惑とならない程度にのんびり順応しよう。
いつか、気持ち良く春を踊れることを夢見よう。


何でもない日にいただいたのは、『一針』のSACOCHE(サコッシュ)。街にも山にも持っていけそうだ。
ここのアイテムには物語性が感じられるから大好きだ。機能性や軽量化、そういった製品に排除された思いが詰まっている。
カヌーでいうなら、ウッド&キャンバス。シンプルをきわめると美しいフォルムが浮かび上がる。

特別な日じゃなくてもいいのだ。毎日は、いつだって、あたらしいのだから。


2017年3月5日日曜日

『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ

三作目のパウロ。
『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ 訳:江口研一 角川文庫


どうしてこの人は刻一刻と姿を変えていく生物「女性」をここまで的確に書けるのだろう。女性ではないのか、と思わせるほど。『11分間』で強く抱いた謎は継続。愚鈍な男ほど、読むべき作家な気がする。理解できるかは分からないが、新発見があるはずだ。

狂っている方がフツー。自己肯定もされたような気分。
元々フツーじゃなかったのは、ひとつ。小さいころからずっと、「あなたみたいな人には出会ったことがない」と、言われ続けて、異国人がられることにはすっかり慣れていて、しかもそれはぼくの心を傷つけるよりも、どちらかというと喜ばせるものであり(マゾっ気が盛んなのかもしれない)、どうやら多分、何かが浮いていた。心が常人より浮いているんだと思う。しかし、特に出る杭を叩く輩にも出会わず、むしろ面白がってもらえる環境、人が常にあったのは、非常に幸運であろう。そこにかんしては多様性の代名詞・新宿に生まれ育ったおかげ。なんといっても、何でもアリな愛に溢れた父・母のおかげであろう。
今、ここで、ぼくはそんなに浮いていないと思っている。というか、至極まともではないか?と思い出してもいて、それが錯覚であることをパウロさんや、とある本に今改めて気づかされ、肯定してもらっているところ。
ぼくが変わったのではなく、まわりの誰もがここでは浮いているから、差が縮まっているのではないか、と。それが居心地の良さにつながって、ぼくを一点につなぎとめているのだろう、と。
支笏湖。本当に不思議なところ。

フツーのところにいると変なヤツ、が変なヤツだらけのところにいると、「フツー」になる。
ぼくは「フツー」に前世でのトラウマか何かがあるのかもしれない。フツーという言葉を忌み嫌って高校でも「普通科」になんか属してなるものかと父の助言もあり総合学科(大学のようにカリキュラムを自分で組めるので興味のある分野を特に学べる)に入学した。

フツーという本道を歩かず、否、歩けず?
どちらにせよ、メインストリートへの魅力は一切感じず(感じないようにした?)、人通りのない脇道にこそぼくの好奇心はいつも疼いていた。
誰かのことを言えるほど、ぼくはいたってフツーじゃない。
そのおかげで、好きなものへの異常なこだわりが今の仕事の原動力となっている。

自分の特性を見極め、能力を最大限生かせる場をつくれれば、それほど素晴らしいことはない。
短所を殺すのではなく、抑え込まずにむしろ解放することが、つまり長所をとことん伸ばすことであり、可能性の芽をいくらでも膨らませていくための方程式だ。ダメなところを含めて、妥協とは逆路線で、全部を許し、受け入れることができれば、それは他者をまるっと受け入れられることを意味する。
自分を愛すること。やっぱりそれができないことには本質的に誰かを愛することなどできない。自己と他者に線はかつてなかったはずなんだ。ひとつだったころに還るだけ。

ということで、‥狂ったまま、行こうぜ。
※カヌー乗り・野田知佑さんは「のんびり行こうぜ」。

書評失格。以下、
ずきゅん!sentence掲載。

ベロニカ「誰も、何に対しても慣れてしまってはいけないのよ、エドアード。わたしを見て。わたしはもう一度、太陽も、山も、人生の問題でさえも、楽しめるようになってきたの。人生の無意味さが、自分の責任以外の何ものでもないことを受け入れ始めたところなの。もう一度リュブリャーナの中央広場が見たくて、憎悪も、愛も、絶望も、退屈も、人生を成すそんな簡単で取るに足らないながらも自分の存在に喜びを与えてくれるものを、感じてみたかったの。もしいつか、ここから出られたら、本当に狂うことにするわ。実際、誰もが狂っていて、一番狂ってる類の人たちこそ自分が狂ってることに気づいていなくて、他人に言われたことを何度も繰り返すような人たちなのよ。」(p.117)

マリー「あなたもそうあるべきなのです。狂ったままでいながら、普通の人のように振る舞うのです。人とは違う存在であることの危険を冒しながら、注意を惹かずにそうすることを覚えなさい。この花に集中して本当の“わたし”を出してあげなさい」(P.124)

ベロニカ「要するにね、イゴール博士、顔に雨を感じて、魅力的だと思う男性に笑いかけたいの。母親にキスして、愛してると言って、その膝で泣いて、感情を見せることが恥ずかしいことだなんて思いたくないの。隠そうとしてたけど、ずっとそこにあったものだから。」(p.169)

ゼドカ「また死ぬなんて言う前に、話しておきたいことがあるの。きのう、あなたが体験したような瞬間を、一生探し求めても、絶対に見つけられない人もいるのよ。だからもし、あなたが今死ぬことになっても、愛で胸がいっぱいのまま死ぬことになるわ」(p.198)


2017年3月4日土曜日

確定申告と偏愛主義

3月から氷濤まつりの解体作業が始まっている。
ぼくはというと、ここ数日、松澤先生のサポート任務、パソコン入力に没頭していた。
パソコン入力といえば…

原発いらない活動にのめりこみ
(これだと思ったときの熱量は凄まじく、周囲との温度差にも気づかず、「一極集中無我夢中恋は盲目」状態突入期。まわりが見えなくなり、ある意味無敵化する時期がこれまでに何度か、何度も?ある。よきも悪きもぼくの性質のひとつ。)、

まともなお金を稼がず冬を越えていたいつか、西荻窪で短期入力バイトをしたことがある。事務仕事でお金をもらうのは初めてで、向いていないだろうなあと思いながら通ってみたら、何だ、できる。かなり、できた。
自分の仕事どうのの次元ではなく、チームとしての効率をあげるために、クレ556を差すような動きを自ずとするようになった。
向き不向きは思い込みであることもままある。
チームが円滑に回るために、回すために何が必要でどこがストレスで足りていないか。誰が何が得意か。
そーいえば、この頃はツアーどうのよりそっちに関心が向くようになっている。歯車が増えるほどそれは困難になるのだが、だからこそいつかビタッとハマる瞬間を味わいたいと欲する。浮いたエネルギーで新しいことに向かえる。
ツアーだけ、目の前のお客さんだけ、自分だけ、情熱だけ、では続かない。大切なのは、やるかやらないかより、続くかどうか、な気がする。


「お客さん来るな」と思うと本当に来なくておかげで作業ははかどるはかどる。優先事項というのも、ときに、ある。いや、いつでもそこは、いらっしゃいませ、でなければ。


ひとつの夢から醒めると、いつも、活字の海を漂いたくなる。
まつりが終わり、アウトプット作業も終えたら、インプットインプット。study。


金を稼ぎながら夏も冬も夢を見れるのだから一石二鳥どころの騒ぎではない。

「互いに愛しあおう、しかし、決して互いを所有しあおうとしてはいけない。」マリーア
『11分間』パウロ・コエーリョ 訳亘敬介

思えば本の読み方もやはり偏りがちで、一冊面白いとその著者の本がずっと続く。偏愛主義とでも言うのか。昔から、群れないオタク気質は健在。
パウロさんの一冊目はぱくちゃんに教わったのだよなあ。『アルケミスト』

2017年3月1日水曜日

おひねり制アナログ紙『まちゅ★ぴちゅ』水深22m完成

 2017一発目、できました。


カフェ一冬目に書き残していたこと。
カフェ二冬目のこと。
一月の本。

旅先でのことを書くのはまあ簡単で。すべてが新しい。
単調に思われる「暮らし」を書ければ、一番説得力があり、最も強いのでは?と思うわけです。で、千歳にこもった二月を書けたわけです。単調どころか刺激的です。

暮らしに埋もれることは、いつかのぼくの憧れでした。
暮らしに埋もれることは、通りすがりの人(旅人というとかっこ良いね。通行人Aだよ)にはどうしたって作り出せない聖域であります。

気になる方はご一報。
lake.abelake※gmail.com
※を@にしてね。