2016年3月31日木曜日
漕がないピアス
くだらない話はもういらない。ほしいのはこれから。
両手しかないから、全部は掴めないから。
それは、飾りというより、お洒落というより、心。姿勢というか気概。陸で踏ん張るための必需品。見映えじゃなくて、暮らしにさせてもらってきたことへ、人への感謝、尊敬。
「男のくせに」
とか言われるとますます外せない。
長いもの、大きいもの、多いものたちへの反抗期はいくつになれば終わるのだろう。
「当たり前」という方程式をいくつぶっ壊せるだろう。
それ、「当たり前 」じゃないから。
というわけで…飾りじゃないのよピアスは。はっは~♪
追伸、ベビーメタルのCD買いに行きたいです。
2016年3月30日水曜日
2016年3月29日火曜日
2016年3月28日月曜日
「偏愛道具学~防水バッグ」のその後
記念すべき第一回の道具シリーズは2011年8月→【偏愛道具学 防水バッグ】
SEAL LINE/Black Canyon Dry Bag/10リッター
十年以上、酷使に耐えると業界内でも評判のシールライン。
あれから毎日酷使され、四年後の2015年の秋口に、ついに壊れてしまいました。
バックル、ぱきーん。
生地はバハバッグに遜色ないタフさを見せてくれましたが、原因はバッグではなく、無理くり遊び道具を何でも詰めこんでいたぼくの使い方のせいですね。
困ったときの秀岳荘にかけこんでみたものの、防水性能を保ったままのバックル交換は不可能とのこと。
シビアな環境には使えなくなり、第一線はあえなく退きますが、日常使いに回そうと思います。
プールバッグにでもするかな。
あ、ちなみにバハバックの10・20リッターはかのあで買えるみたいですよ。
水際が好きな方は、個人にひとつ、あったら便利な防水バッグ。
2016年3月27日日曜日
カヌーってすごい
今季初の千歳川DR。
日曜日に店を閉めざるをえないことに罪悪感だったり、無念である気持ちはないわけではない。
この前の土日に、「来週も来ちゃおうかな」なんて素敵な笑顔も見てしまったし。
誰かが店の前でがっかりしていたら、もう、申し訳ない気持ちでいっぱい。いつでも、あそこにいれば、あの人がいる。そんな人間になりたいとも思う。
が、身体は一つしかない。人ひとりにできることには限りがある。春になればウズウズとスキップをし始める心。
何より、ぼくは、まずは、カヌーガイド。
とっておきのコーヒーだって、カヌーが教えてくれた。
カヌーがなければ、去年の夏、ぼくはケーキなんざ焼かなかったと思う。
つわりで倒れるギリギリまでケーキを必死に焼き続けたnaoさんをそばで見ていなければ、ケーキなんざ焼かなかったと思う。
頑張る人は、ケーキづくりに興味も関心もない人間に、何が何でもケーキを焼かねば、と思わせ行動させるだけのパワーを持つ。
ぼくは頑張る人が好きだ。頑張っちゃう人が好きだ。
※憎たらしいほどの愛をこめて「ケーキ≪なんざ≫」と言っています。コーヒーへの愛よりずっと複雑な感情がケーキづくりにはありまして。
カヌーがあるから、コーヒーからも逃げずに挑めた。
「カフェかのあ」は、ただのカフェ(ただのカフェに失礼ですね)ではなく、カヌーへつながる道だと、ぼくは捉えている。ただのカフェではないから、面白いわけで。
今年も水に陸に悩むことになるかとは思うけれど、右手にも左手にも好きなことを掴めているのだから、幸せなものです。
前説が長引きました。
久々のカヌーツアー。
間が空いた分、客観的に眺められた。「かのあ」のツアー。
自画自賛してどうするのさ、と言われても仕方がありませんが、非常~に素晴らしいツアー。自分が友だちと参加したいもんね。
息を合わせたらいけない、の図。
なおきさんと水の上にいるのも久しぶりで。ストレスがなさ過ぎてやっぱりすごい。
やりすぎないしやらなすぎない、さりげなくて参加者は気付かないくらいのバランス感覚。
まあ、当たり前っちゃ当たり前でもあって。
ぼくはなおきさんのツアーを見て、自分のツアーをつくり出してきたんだから。
「こうしたい」が一致するってなかなかないし、いつもぼくの三歩先を見据えている。やっぱり、貴重な存在だなあと改めて思わされたよね。
夏も冬も一緒だと多分、こう素直には思えない。わはは!いろんな意味で距離感が定まってきたかな。
外仕事の醍醐味は、終わったときの爽快感。働いたぜ感。お酒がおいしいんだわ。
これはカフェではいくらやっても味わえずにいる。多分、事務とか中仕事全般に言えることなんだろうね。すっきりしない。毎日曇天、みたいな。
そういう曇天から解き放たれに、快晴を味わいたくて、みんなカヌーに乗りに来るのかな。
屋根がないってこんなに気持ち良かったんだな。ここ二年、外が当たり前になっていた。危ない危ない。
カヌーって、やっぱり、すごい。
続けてきてよかったし、まだまだ漕いでいたい。
日曜日に店を閉めざるをえないことに罪悪感だったり、無念である気持ちはないわけではない。
この前の土日に、「来週も来ちゃおうかな」なんて素敵な笑顔も見てしまったし。
誰かが店の前でがっかりしていたら、もう、申し訳ない気持ちでいっぱい。いつでも、あそこにいれば、あの人がいる。そんな人間になりたいとも思う。
が、身体は一つしかない。人ひとりにできることには限りがある。春になればウズウズとスキップをし始める心。
何より、ぼくは、まずは、カヌーガイド。
とっておきのコーヒーだって、カヌーが教えてくれた。
カヌーがなければ、去年の夏、ぼくはケーキなんざ焼かなかったと思う。
つわりで倒れるギリギリまでケーキを必死に焼き続けたnaoさんをそばで見ていなければ、ケーキなんざ焼かなかったと思う。
頑張る人は、ケーキづくりに興味も関心もない人間に、何が何でもケーキを焼かねば、と思わせ行動させるだけのパワーを持つ。
ぼくは頑張る人が好きだ。頑張っちゃう人が好きだ。
※憎たらしいほどの愛をこめて「ケーキ≪なんざ≫」と言っています。コーヒーへの愛よりずっと複雑な感情がケーキづくりにはありまして。
カヌーがあるから、コーヒーからも逃げずに挑めた。
「カフェかのあ」は、ただのカフェ(ただのカフェに失礼ですね)ではなく、カヌーへつながる道だと、ぼくは捉えている。ただのカフェではないから、面白いわけで。
今年も水に陸に悩むことになるかとは思うけれど、右手にも左手にも好きなことを掴めているのだから、幸せなものです。
前説が長引きました。
久々のカヌーツアー。
間が空いた分、客観的に眺められた。「かのあ」のツアー。
自画自賛してどうするのさ、と言われても仕方がありませんが、非常~に素晴らしいツアー。自分が友だちと参加したいもんね。
息を合わせたらいけない、の図。
なおきさんと水の上にいるのも久しぶりで。ストレスがなさ過ぎてやっぱりすごい。
やりすぎないしやらなすぎない、さりげなくて参加者は気付かないくらいのバランス感覚。
まあ、当たり前っちゃ当たり前でもあって。
ぼくはなおきさんのツアーを見て、自分のツアーをつくり出してきたんだから。
「こうしたい」が一致するってなかなかないし、いつもぼくの三歩先を見据えている。やっぱり、貴重な存在だなあと改めて思わされたよね。
夏も冬も一緒だと多分、こう素直には思えない。わはは!いろんな意味で距離感が定まってきたかな。
外仕事の醍醐味は、終わったときの爽快感。働いたぜ感。お酒がおいしいんだわ。
これはカフェではいくらやっても味わえずにいる。多分、事務とか中仕事全般に言えることなんだろうね。すっきりしない。毎日曇天、みたいな。
そういう曇天から解き放たれに、快晴を味わいたくて、みんなカヌーに乗りに来るのかな。
屋根がないってこんなに気持ち良かったんだな。ここ二年、外が当たり前になっていた。危ない危ない。
カヌーって、やっぱり、すごい。
続けてきてよかったし、まだまだ漕いでいたい。
2016年3月26日土曜日
カヌーナビゲーション
南の島にはスターナビゲーションという、伝統的な星の航海術が在る。
星のことはよくわからないのだが、
カヌーはいつも、好きなことや場所、好きな人へたどり着く道筋を照らしてくれる星のよう。
未知なる素晴らしき世界へ人々(限りなきマイノリティではありますが)を誘う魅惑の乗り物、カヌー。
そんな意味を込めたのが「カヌーナビゲーション」の由来だったのです。分かる人だけちょっと唸ってくれたら嬉しいなネタでした。
話変わって、
最近の願望、野望、欲望。
山に行きたい。ボードを乗りこなしてやりたい。自転車に乗りたい。カヌーを漕ぎたい。カブを復活させたい。SUPで波乗りしたい。通年カフェを開けてみたい。泳ぎたい。新メニューを編み出したい。コーヒーを淹れ続けたい。走りたい。唄をつくりたい。歩きたい。あそこにいって、あの人に会いたい。
遊ぶことしか考えていません。
難点は身体がひとつしかないこと。千手観音にでもなりたいが、急にはなれないので、ぼくにしかできないことをその都度見極めながら。
何がどうでも、まわりがどう移ろおうとも、好きなことだけ考えようと思う。
それが仕事だし、暮らしだし、かつおだし。
ひどいオチが決まったところで、ぐっどない。
2016年3月24日木曜日
パタゴニアンズと背負い投げ
幼き頃、パタゴニアを知る人は今のように多くはなかった。
かつてのナニソレ?が街中に今やファッションとしてまかり通っている。
父も母も、昔からずっと「いいもの」「おいしいもの」「やさしいもの」「楽しいこと」にはお金を惜しまない。
そういう潔さ、素敵だなあ、粋だよなあ、と思う。
都会人はよく歩く。父も母もよく歩く。あほみたいに速い。
小さい頃、あちこち連れ回された。
お決まりのコース、目白。
秘密基地みたいな、昼なのに夜みたいに薄暗いカラファテとセット。
そんなわけで、アウドアメーカーの中で一番付き合いが長いから愛着があって。ただの、にわかじゃないんだぜ、と心のうちで思ってる。
気を張りっぱなしの冬が終わったのだな、と改めて感じる。
必死だったから、物欲なんて吹き飛んでいたもんなあ。
ぼくは経営者ではないけれど、店の実際的なことを全部任せてもらって、経営者ごっこをして、背負う意味がちょっと分かった気でいる。
弱音を吐けない、吐かない。とにかく、何が何でもやり抜くこと。ここぞ、で踏ん張る気概。
冬が終わり、氷濤も終わり、なおきさんが戻ってきた。精神的にも物理的にも。
肩の荷が降りた。降ろした荷がどこかに消えるわけではないこともわかる。
少し漕ぎ始めたら体重が二キロ増えて元通り。
いつ敵に襲われるか分からないカフェという戦場で呑気に飯を喰らう度胸がぼくにはなかったし、つるっぱしをふるうでもないからそこまで食べる必要もなかった。冬は燃費が良かった。
気持ちも体も、季節に合わせて夏に向かっていくんだな。
2016年3月23日水曜日
春の唄2016
手が届きそうな位置
今宵は おぼろ 満月 か
ぼんやりかすむ 春の宵
何度でも浮かぶ、お月さん
「たまにはこっちにおいで」
なんて誘ってみたりしてみたりしてさ。
現実なのか夢なのか
ふたつをまたぐ世、カヌー
夢を現実に引っ張ろか
イメージを形に
クリエイティブはアーティストだけの特権ではない
暮らしの中に根付き、寄り添うもの
ふたつはひとつ、ふたつをひとつに。
いつしか奪われた、つ くる喜びを取り戻そか
幻のような時間。どこまでが本当だったのだろう。何が正解だったのだろう。
ぼくにはわからない。確かめようもない。
ただ、振り向かずに進む。何が良かったのか悪かったのか。いつか、わかるのかもしれない。いつか、反省をしたり後悔をするときが来るのかもしれない。誰かや何かや自分自身に誠実であろうとすると、誰かや何かや自分自身に不誠実になる。正義と悪は複合的に介在する。わかりやすいのはハリウッド映画だけだ。ぼくがしたかったこと、せずにはいられなかったこと。力不足だったのかもしれない。ただのエゴイストなのか。
わからないことを考えている時間はない。
わからないことだけわかったまま、歩く。とまってはいられない。生きている、生きていくのは、「今」であり「これから」だけ。
追い立てられるのでなく、自らの背中を押していく。自分で。誰のせいにもせず。したくない。生かされる受動的感謝だけではなく、生きてやるという能動的気概でもって、全力で楽しみ尽くしてやるという覚悟。
なんのために生きる?誰のために生きる?どうしてそこにいるの?
ブレないシンプルな答えを見つけるまでに28年。
支流が本流。わき道が国道。芸事を積み重ね、さらなる高みへ向かおう。すべての能力を最大限に伸ばそう。
2016年3月22日火曜日
十和田よりの使者
このまま どこか遠く 連れてってくれないか~♪
2012年東北遠征時にお世話になりまくった、にわ大先生がコーヒーを飲みに来てくれました。
当時のてやんday→【東北遠征6 西目屋村から十和田湖へ】
長い道中で編み出されたDJごっこがビシッと決まったとき。
当時のかのあブログ→【東北カヌーの旅2012 9】
あっの頃はっ!マタギブームでした。
光の加減でイマイチショットだらけですいまへん。
フィールドは違えど、同じ世界を生きる大先輩との時間は大変貴重であり、単純に嬉しいのであります。
うーし、がんばろーっと!
ありがとうございます!
2016年3月21日月曜日
長い冬だからこその知恵
三連休、ありがとうございました。
何かを始めたり、新しいことをするには春。
いろんなところでいろんな人がモゾモゾと動き始めているのを見たり聞いたりすると、ああ、春なのだなあ、とまだ芽吹かない木々より先に季節を伝えてくれる、生物・ヒト。
働くって、生きるって、一筋縄ではいきません。一生あっても足りないんでしょうね。
なるだけ、ぼくは、誠実でありたいな、と。まっすぐに向き合っていたいな、と。
誰にたいしても、何にたいしても、なるだけ。
素直になりたがりなひねくれ者には実際非常に難しい理想論なんですけど。
ひとまず、今年、いや死ぬまでの目標、定まりました。
一生懸命、超意識的に思いっきり楽しみ尽くしてやれい。
ということで、新たな研究にも着手し始めました。
2016年3月20日日曜日
ほりじい誕生日
コロコロと忙しい天気だった支笏湖。
あっちからこっちから、顔見知りの来客が続き、嬉しいかなお腹いっぱいday。
美々川カヌートレイン、楽しかったですね。たった一年前のこととは思えないほど懐かしいのはそこからの激動の日々の賜物か。
去年の今頃はまだお店がなくて、それがそれまでの当たり前だったわけで。
さらには、本日かのあの「オジ(さんアイ)ドル」、誕生日。
…えっ、アイドルだったの?初耳だし~。っていうか、え、あの人どこからどうみてもイケイケなメンズじゃーん?
…ギャルのふりに失敗したところで、というか、たいちゃん若すぎてかわゆい。
ほーりー、おめでとさーん!
いくつになったのかは、本人にこっそり聞いてみてね。
2016年3月19日土曜日
いつかは冷める恋と冷めてもおいしいコーヒー
開店前。その日毎に変わる豆の顔色を窺いながら、ネルドリップでコーヒーを丁寧に淹れる。
この儀式の安否がその日のぼくの心模様となる。
味が決まったときは最高。
しくじったら、何が悪かったのかぶつくさ記録をとり、申し訳ないけれど、今のオレはこんなもんだ、と事実を潔く認め、腹をくくるのみ。失敗したって、予定通りに店は開けるものだ。
しくじっても、一定のラインはもう越えるようになっているから安心してください。
自己満の世界。
今日のコーヒーは今までで一番、素晴らしかった。
思わず、「うまい!」と声が出た。
コーヒーは知れば知るほど分からなくなっていく魔性の生き物で、まつり期間中はドツボにはまり、コーヒーを飲む人の反応を見るのがおっかなかった。
毎日、淹れること。これしかない。
毎日、漕ぐこと。
毎日、書くこと。
ひとつ、ひとつずつ、取っ組み合うしかない。
好きなことは毎日やる。好きなことだから、毎日やれる、やりたい。
今、やりたいのにやれずにいることは、言うほど好きじゃないからだとぼくは思う。
本当に好きならもう、手の内にあるはず。
本格かどうか、試されている。
「好き」だけは無理せず、我慢せず、誤魔化さずに真っ向勝負を挑み続けていたい。
オレの「好き」をなめるな、と。
一体、何と闘っているのだろう。多分、自分。
2016年3月18日金曜日
2016カヌーガイドデビュー
予想より早く、2016ガイドデビューを果たしてきました。
冬のカフェ業務が、【仕事の楽しみ方】を思い出させてくれました。
写真は千歳川をカヌーで下ってからの、上りはランニングで身体に刺激注入トレーニング。
赤いアウターは【ファイントラック】の「ニューモラップフーディ」。車にも気づいてもらえるビビットカラー、着心地もしなやかなので、山だけでなくランニングにも◎。
どう働きたいか、どんな自分でありたいかが明確になりました。
答えはいたってシンプル。
楽しく働きたい。
簡単そうでこれがなかなか難しい。
難しいから、できるようになろうと、なれると思う。
無意識でやっていたときより、さらなる高みへいけると思う。
今年は、面白くならないはずがない年。去年の鬱憤も晴らさないといけないから大変だ。
2016年3月17日木曜日
休みのカヌー、仕事がカヌー
氷濤まつり、解体も凄まじい早さで終わったらしいです。
今年もお疲れ様でした。
休み前夜、明日千歳川に行くんだと思ったら嬉しくて。
結局、好きなものは好きなまま。
17歳で恋をした世界は28歳になった今も色褪せることはなく、むしろより一層輝いてきています。
2016年3月14日月曜日
『調理場という戦場』斉須政雄 著
・遊んでいるのか仕事をしているのかわからないような職場は最高です。仕事が日常なわけだから、毎日やっているお掃除でも何でも、遊びと変わらず習慣でできてしまう。
『ベルク』本からの流れで手に取った一冊。
さすが、唸らされた本の著者が薦める本なだけありました。
すんごい表紙よりすんごい言葉のオンパレードで、またしても鉛筆の線だらけ。
働くとは。生きるとは。
どちらも素晴らしいことだなあとワクワクウズウズする作用あり。
『ベルク』本との共通キーワードは「透明」でした。
2016年3月13日日曜日
ぼくのベーコンが売れた日
違いのわかる方が、ぼくのベーコンを買ってくれた。
SP thanks.
引っ越し祝いに頂いたこの新燻製器が、素晴らしい。まず、何よりカッコ良い。
SP thanks.
自分のつくったものを「おいしい!」と思ってもらうのは、自分を認めてもらえるようで嬉しい。
この冬で学んだけれど、「おいしい」って、たった四文字だけれど、凄まじい威力を持つ言葉みたいだ。
どこからともなく漏れる「おいしい」が聞こえれば、ぼくの場合はいくらでも踏ん張れた。よっしゃ!ってなったし、もっと聞きたくもなったし、聞こえてこないと恐ろしくもあり、なんというか、右も左もわからない世界にいきなり飛び込んだものだから、とにかく、おっかなくて、でもそのスリルがたまらなく気持ちよくて、
ここ一、二年物足りなかったのも求めていたのもこれだ!という確かな手応えと、自分との信頼関係が構築できた。
考えてみれば、毎日、あーだこーだしながら淹れたコーヒーを誰かに飲んでもらえるって、非常に有り難いことだな、と。
イメージが、夢が現実になり続けていく、ノーボーダー。ぼくはスノーボーダー。
2016年3月12日土曜日
似合うとか似合わないとか
人間には二種類ある。
カヌーが似合う人と似合わない人。
完全なる主観である。佇まいで、ただ、好きなだけか、もしくは、カヌーに愛されているかどうかが分かる気でいる。
練習すれば漕げるようには誰でもなる。ぼくでもなる。しかし、似合うか似合わないかは生まれ持った資質で、これはどうやったって真似ができないし、備わるものでもない。
似合わないのに上手い人、はいない。というか、うまくなくても、似合う人だとうまく見える。
では、何を持ってうまいのかと言われると、これまた主観である。固い人より柔らかい人に目を奪われる。水と闘う人など論外である。
それって、きっと、その人ごとの人との付き合い方に通じるような…なんて思ったり。
初めてリョークン(らくだの手塩な【キャメル】な釣り吉カヌーガイド)の漕ぎ方を見たときの衝撃的感動ったら。
川のことなんて本当に何もわからず、諸先輩方のロープの嵐を一身に受けながらひたすら泳いだ空知川。思えばなんて豪華な顔ぶれだったろう。
ただただ、どこまでもその人はとことん「自由」だった。
パドルで、カヌーで誰よりも気持ち良く唄っていて、ぼくはそのメロディに川行のあいだ中ずっと聞き惚れていた。
なんてクリエイティブだろう!カヌーが芸術に、表現になり得るのだ!
カヌーに生命を吹きこめる人、魅せる漕ぎ方ができる人は、稀有。
漕げる人、うまい人はいくらでもいる。
話がソレル。
しかし、似合わない人は、いや、似合わなくなると?カヌーから自然と離れていくような気がする。
自分に似合うかどうかと言われると、ぼくの場合はデートの口実とかそんなよこしまな気持ちが多分にあったりするわけで、カヌー一筋とは言えないわけで、何が目当てって、結局すべての物事は書くためのネタとしてしか見ていないのであり、
山にも街にも心が動きそうな場所であればどこにでも行きたいと通年思う浮気者なのであり、
流れに逆らうときに目をキラキラさせ、にたりと口角を上げる性癖を持つなおきさんを追いかけた時期もあったし、その世界もわからないではないけれど、そこらへんに関しての温度差は歴舟‥歴然。
まあ、どれが正解でも間違いでもないし、偉いのでもない。
いろんな向き合い方があっていい。人の数だけ、カヌー的多様性だって守らないと、選択の余地はあるにこしたことはない。
そんなわけで、カヌー馬鹿と一般人をつなぐのが「かのあ」でのぼくの役割なのだな、なんて今までを振り返ると思う。いきなりコアには大概の日本人はいけない。
間口は広くて困らない。奥深いカヌーワールドを匂わせるイントロが、カヌーガイドとしてのぼくの仕事。
その先には、なおきさんなりリョークンがいるし、ぼくはというと、おいしいコーヒーを淹れたいし、君とおしゃべりをする時間も必要だ。
カヌーの敷居は様々な面で今だ高い、と感じる。誰もがやらない遊びだからやっている風もあるくらいで、山のように皆がこぞって押しかけたならぼくは、カヌーから離れるに決まっているが、生きている間にそのような事態となる可能性は幸か不幸かきわめて低いのも確か。
一方、カフェの敷居はというと、非常に低い。そこが、ぼくには新鮮で、難しくも好奇心をくすぐられる点でもある。
変なヤツでも変だからといって入場規制はかからない。安心してきてください、welcome 変なヤツ。
入りたいと思えば誰でもを分け隔てなく迎える、この陸の水商売はなんて水平だろう。勿論小銭は必須ではあるけれど。
仕事(ガイド)と家庭(店)を両立するための切り替えスイッチの押し方、ミスターあんばらんすにどなたか教えてください。集中力の高さには、(いや、高さ「にも」ですね)自信がありまして。
ひとつのことをひたすらやらせたらもう、無敵なのです。簡単なのです。得意なのです。「どっちも」が駄目なのです。苦手なのです。不得意なのです。でも、やれるようにならないといけないのです。ぼくにしかできないことが少なくはなくなっているのです。
切り替えスイッチがあるのか分かりません。去年は見つかりませんでした。もう三月も中。あまり時間がありませんね。please 即効性のある作戦。
カヌーだけでは満足できないぼくだけれど。カヌーがなくても多分駄目なんだろうけれど。
大事なモノ、好きなこと、好きな人、全部手放さないでもいいですか。それでこうして悩みが尽きないのだけれど。
カヌー。コーヒー。支笏。千歳川。あとは気の置けない友人が何人かいて、たまに遠くへ出かけたりして、隣に君。これさえあれば、ぼくの小さな世界はもう完璧。世界のへいわを、個人のへいわをつくることから始めている。
久々のパソコン入力はストレスフリーなのでいつまでも書いてしまいますね。愛想つかされる前に切り上げますね。え、もう遅い?ここまで読んだあなたも、相当好きですね。時間は有限ですよ、もっと大事にしないと。なんて。わはは。
いつもご愛読感謝!すべての芸事の質を高め、いつか言葉から解放される日まで書き続けます。
いつも考えているから、3.11のことは書きませんでした。
どの行動にも選択にも、3.11が関わっているし、いつまでもそれは、変わりません。
βの誕生日です。おめでとう、と、あらゆる生命に感謝。
2016年3月10日木曜日
人生には遊びが必要だ
お金が欲しいわけではない。しかし、仕事をしないと生きてはいけないし、ぼくの仕事は暮らしと切っても切れない密な関係にある。
が、しかし、人間というものには、やはり、遊びが必要であることを思い知らされるに十分な、そういった意味では非常~に久しぶりの「休日」を堪能した。
本気で働けば働くほど、遊びも活きる。
だから、やはり、なくても誰も死にはしない「カヌー」も「カフェ」も誰かにとっては必要なのだ。ないと困るのだ。
居場所をみんな家以外のどこかに欲している。
息を抜ける空間を守りたい。好きな店が姿を消したときの喪失感たるや。
拠り所。
結局、仕事のことを考える休日。
なくても誰も死なない仕事をわざわざこのご時世に選ぶのか?
五年前の自分に、それでいいのだ、と明日言おう。
四年前までは断定できなかったから。
2016年3月9日水曜日
建前とか人の目
今年。ぼくは氷濤マンではない初めての冬を過ごした。
北国の冬は氷濤。この絶対的方程式に異を唱えたのが、さんざん夏のぼくを振り回した店という存在だった。どうやらこの店は、オレを通年試したいらしい。受けて立った冬。苦しみも喜びも、凄まじい新風が吹き、布団は吹っ飛んでもオレは吹き飛ばされないぞと踏ん張っていたらいつの間にか、できることが馬鹿みたいに増えていた。
店の思惑通りに、ぼくは多分、今、誰よりも店を好きになった、させられた、と思う。
店「意外と骨があるじゃねーか、オマエ」
ぼく『なんだこのやろ。オレを誰だと思ってるんだ。本気になればこんなことおちゃのこさいさいだ。』
見た目はかわいらしいが、非常に小生意気な店だと思う。
氷濤マンはくせ者だらけで、一見こわそうな人だらけだがみんな、本当はやさしい。ガテン系仕事自体は誰よりも向いていないし、似合わないことも自覚しながら、
足りないものを補い合う、あの一貫したマザー・テレサのような博愛精神は何なのだろう、と思う。みんなちがって、みんないい、を体現しているあの制作現場から、今の時代や政治が学ぶべきことは多い。切り捨てるのは簡単だ。
ぼくがぼくであることは何ら変わらないけれど、店長の任を受けてから、ぼくへの評価だったり見方、対応の仕方が色々なところでなんだか少し変わったように感じる。人によりけりでは勿論あるが、「世間」(ごまかしたって人間だろが)というやつは本当に外面ばかり大事にして、くだらねーなあと思う。
見下されなくなった、というかなんというか。
カテゴライズするのもされるのも好きではないが、そういった色眼鏡でしか人を見ない、見れない人間が世の中の大半であり、それにより世の中のシステムが円滑に回っているのも事実。
建前も大事。それも呑み込めるようにはなった。
箱モノに見合う人間に人はなっていく、背負えるよう努めることで、個が成長することも事実。その証拠にぼくは冬を越して少し、しかし、確実に自覚や自信、これでいいのだ感を得たように思う。
分かりやすさは大事なのだろうが、それとは別に、
白と黒の間にあらゆる色のグラデーションが多彩に連なっていることはいつでも肝に命じながら生きたい。
イエスとノーの間、白と黒の間、あらゆる人と人の間を、
分かりやすくない曖昧な間をこそ、ぼくは大事にしたい。
素敵な人は大体が狭間に悶えているから、そういう人が近くにいたら、できるだけのことをしたい。蔑まされる生命はひとつだってない。
なるだけ、形ではなく、その人自体を眺められるメガネをかけてあらゆる人と関わりたい。
お金を持っている人より、人に寄り添える人がぼくには断然魅力的に、写るんです。
お金は目的ではなく手段だと、ベルクの店長も言っている。
水の上で、大事なのは、漕げるかだけ。お金は使い道がない。重たいだけ、かさばるだけ。しがみついても無駄。陸の常識は水の非常識。水に浮かべば、空を飛べる。カヌーは宇宙船。これは支笏だからということもある。
陸での肩書きは無意味。初めて漕ぐならみんな、水平。平等。誰も偉くない。ただ、それぞれに、素晴らしいってだけ。
水の上はこの地球上で最も公正かもしれない。
地球には、これ以上引くところがないほど、あらゆるところに人間が引いた線があり、すべての事柄には優劣や効率がつきまとう。
あくなき所有欲。所有という概念もくだらない。
美しさも幸せも分け合うためにある。
すべては誰のものでもない。
くだらないし、汚いから、ぶっ壊してしまいたいと、いつもぼくなんか思ってる。
くだらない枠に囚われて身動きがとれず苦しむ人をたくさん見たし、いるわけで。
枠なんか、柵なんか、線なんか、常識なんか、当たり前なんか、全部、サヨナラして、もっと身軽になればいい。
何をできるかできないかとか、何を持つか持たないかとか、そんなことはどうでもいいのだ。
ただ、なにができるからとか何を持っているとかそんなあほな濁り梅酒みたいな次元ではなく、誰でもない、なにも持たないそのままのクリアなあなたがぼくは好きなのであり、誰でも、何でもないぼくを認められたいと欲してる。
なんだか、だんだん恥ずかしくなってきたぞ、勿体ないからこのまま更新してしまう術。
愛する石川直樹さん(この人もやはり、父から新聞の切り抜きでもって教えられた)も最新刊『ぼくの道具』の中でこう言っている。
「自分の行動に消去できるものなど、実は何もないのだ。」
で、何やら石川直樹さんは坂口恭平さんのジャケット撮影をしているらしく、その唄を聞いていたら、やたらに「雨」という言葉が多い気がして。
小学生のとき、キョーダイ三人でマンガ雑誌をつくったり、曲をつくったりしていたことを思い出した。
マンガ雑誌は今やまちゅぴちゅとなったが音楽は再開していないから、そろそろ唄をつくろうかと思う。作曲は誰に頼もうか。
デビュー曲の出だしは「今日は雨みたい~♪」で始まる。
長々と失礼しました。
2016年3月8日火曜日
余計なものは一切使わないベーコン
陸(おか)でのことは赤裸々に書けないので、小さな暮らしについて触れる。
自家製ベーコンがそろそろ底をつきそうなので先日四キロの豚バラ肉にあれこれスパイスをもみこんだ。
ウィンナーも好きだが、長すぎる成分表示を見ては買うことを諦めてしまう。食品の域とは思えぬ。ウィンナー、ベーコン、ぼくの好きな加工食品は添加物まつりだ。怪しいのは嫌だ。自分で仕込むようになった。
進路をベーコンに決めたスパイス漬けの豚バラ肉を小さな冷蔵庫内で寝かせること一週間。時間がかかるほどに愛が生まれる。しかし、人類愛は時間ではなく、感性であり情熱であり、タイミングである。恋に落ちるには一瞬間あれば足りる。豚バラは一日一回は体位を反転させる。
仕込みのときは完成が待ち遠しかった初めての梅酒も、そういえば、そろそろ一年、か。時が経つのは早い。過去の自分から、時空を越えたプレゼント、みたいなもんだ。
保存食やら何やらづくりは、いつまでここにいるか、明日はどこをさまようか分からない旅人には手を出せない高尚な遊びなのである。
仕込みの度に「完成のときまでここにいるよな?いろよ?」と自らの首輪を締め直すような意味があるような気もする。
何かの拍子にふらっと飛んでいってしまうのではないかとぼくはそのへんに関してあまり自分を信用できていないし、誰より危惧している。
よきも悪きも人は急には変わらないのはいろんな人を見て学んできたし、ぼくには伸ばすべき根っこ自体あるのかも甚だ疑問であり、
今、こうして一点に居続けていることや何かを背負いたいと欲し、背負わせてもらっていることは奇跡以外の何物でもなく、何でもないようにほぼ、自分の決断によってのみ一日を一人で目撃者もなくヒリヒリと過ごしているこの状況に内心自分が一番驚きながらも、
ザックは背負わないと背負えるようにはならず、ザックの容量に見合った自分に自ずとなるものなんだろう。
何が言いたいかというと、つまり、今回のベーコンもおいしくできたらいいなって。
2016年3月7日月曜日
藤原銀次郎さん
三月はインプット月としまして。
外仕事から離れて久しいので身体を整えていかないとなあ。
併せて超感覚任せの夢うつつツアーを展開するべんべツアー。さらなる夢の国へお連れするためのきっかけとする知識も増やさねば月間です。マンネリズム打破。自己研鑽。心持ち次第。
絶不調の昨年分も取り返す作戦です。
能ある鷹は爪を隠す、といいます。
引き出しはひけらかさずに、必要なときにゆっくり焦らすように引き出すのが粋というものでしょう。
そんな中、ずきゅんわーど。『王子製紙と苫小牧よもやま話』より。
藤原銀次郎さん曰く、
木を使うものには木を植える義務がある。
それにより生かされるわけで。商売道具へのリスペクト。
カヌーとコーヒーと支笏に生活を委ねるぼくは、それらのファンを増やす義務がある。
間口は広くてまずいことがない。あらゆるloversを増やし、その先の世界を匂わせるのがぼくの仕事。
2016年3月6日日曜日
長靴をはいた紳士
雨と雪の間。
氷濤マン1/12、長靴をはいた紳士…もとい大魔人(ぼくのケータイにはこれで登録されている)が、ついに来てくれたので、「とーちゃん」と思わず駆け寄ったら、猫だましからの足払いをされ、勢い余ったぼくはみぞれ雪に全身抱きしめられ、その後一日捨てられた猫のように濡れそぼったまま、コーヒーを淹れケーキを出し、すべらない話を求められる度にした。
どこまでが冗談なのか、どこまでも本当なのか。
かわいい女の子たちがキャッキャとさえずると、店は非常にカフェらしくなる。それは実に素晴らしいことであるが、
働く野郎共がわしわし集える、そんなハードボイルドな店、かっこいいよなあとも、同じくらい思う。
どれかだけ、とかは物足りなくて、どれもこれも好きだから、あれもこれも手にいれてやれと思う。
ゆるくないどんなもんじゃ
湖に引き寄せられる男シリーズ。はじまり。続くかな?
先日の除雪隊員。氷濤マン1/12、たんたかたんたん(39)。
氷濤仕事で完全なる「はじめまして」でも実はなくて、
再会というほどでもないけれど。そこからずっと、なんか、やけに、やさしいにーちゃん。
なんとなく、どことなく、この安心感はPちゃんぽい。
一見クール。が、しかし、人が好き!
そうは見えないこのギャップ!
凪の夏の朝、美しい夕方、ぼくより先に湖に漕ぎ出すのは、この人だけ。
2016年3月3日木曜日
スロウ46号
いやはや参った。好きな作家さんがどかんと出てしまったので、慌てて買い占め。一冊。
あんびりーばぼーな記事も発見してしまった。
季節より草木よりクマよりぽんぽこより速く。
動き出すのはヒト。
雪が降り殴ろうが、風が吹きすさぼうが、季節はもう、容赦なく春。
太陽の力が昨日より増していく。
知りたいのは、これから。何する?どうする?どうしたい?
これからの話をできる人といた方が人生は楽しい。
だから、ぼくはここにいる。
2016年3月2日水曜日
はじまりはいつも
かたや、一本の電話から電光石火のごとく、面接。
「退職届、出してきましたから。」と、無言の圧をかけてきた者。
かたや、一本の電話に即答。支笏が何かもよくわからず、乗り方も知らないバイクにウィリーさせられつつ生活道具を積み、住む家の心配もせず、とりあえず夜逃げのように押し掛けてしばらく居候化した者。
かたや、カヌーなんて乗ったこともなく、何の気なしに寿司屋に行ったらそれは甘い罠で、さ、どうする?と無言の圧をかけられた者。
三者三様。漫画のような本当の話。はじまりはいつも、ラフ。
かのあるある。
2016年。唯一にして初、非常~にまともな仲間が増えます。わはは!待っていました、細かい人。
2016年3月1日火曜日
ferment Vol.01『味の形』迫川尚子インタビュー、(よ)著
山田写真製版所。2015年12月15日、第1版発行。
ferment=発酵。
インタビュー形式でベルク副店長の味に迫る、ベルク関連本第三弾。
いちばん、「ゆらぎ」(副店長といえばわーど)ある作品。
そうだろうと思っていたら、やはり、表紙は坂口恭平さん。常連さんなんだってね。
「信じてもらえないかもしれませんが、自分のこととなると私はひどく保守的なんです。」(あとがき「構造記憶」の人たちより拝借)
保守のままではこの本は出版されなかったわけだから、
いちばん、覚悟ある作品。
自分のことには保守。ぼくもまるっきりそうだ。どうでもいいと言いながら、実際こわくてたまらない。
そういった意味で保守派を脱した一冊という価値がいちばん大きい、とかとか。
先日の、ある人との会話を思い出した。
「ちょっと不思議な話なんですけど…」
内容に入る前に、ワンクッションが添えられた。
『オレには、そういう前置きいらないよ、わかるから、大丈夫。』
とすかさず反応すると、やはり。
「いや~長年の接客の癖で、人によってはなんだこいつ、となるので、予防線が染み付いているんですね、ははは」
と。
そうか、それで、か。笑ってるけど、色々あったんだろうな、と。
見えないのに感じる、とか、少しでも話そうものなら、奇人扱いされるもんな。見えないところに大事なことはいくらでも転がっているのに。
お金とか老後とかおこづかい制度で首輪、とか、義務に責任。ただ、好きなものを好きだと、それだけで本来良いはずじゃないのか。
何を持っているから好き?それ、「好き」じゃないよ。愛してる、でもないよ。
あまり言わないけれど、オレは好きな水とセックスができる。湖でも川でも好きな水なら。淡水限定だとは思うが。いつでもできる、わけではないけれど。
あまり人から言われないから、他にカヌーでそういうことをしている人がこの地球にいるかは分からない。
今は手の内の茶色い水、コーヒーばかり、見つめている。澄んだコーヒー、雑念なきピュアなコーヒーが理想の味。
話を戻そう。
生きづらいよなあ、と。一緒だから分かる。
ぼくの場合、接客業は接客業だが、カヌーツアーを行うガイドとしては、浮いた感性は殺さずに済むし、活かせる。
【かのあ】は、ぼくの救世主なのかもしれない。雇われ自由人コンテストがあったら、ぼくは優勝すると踏んでいる。
非日常の水の上(ぼくらには日常。水の上。)でなら、どんな人も大体が寛容だ。各々の日常に迷惑がかからなければ、非日常感は大歓迎であり、ありったけ演出されたいのだろう。
同じフィールドもガイドによって別の世界となる。
心を殺さずに、心を売らずに働けなければ、その仕事にしがみつく意味があるだろうか。ぼくらは、楽しむために生まれた。仕事は人生の大半だ。土日で遊ぶだけではぼくには足りない。毎日遊びたいから、今日もぼくは仕事に行く。
感じる人には、誤魔化せない人には、非常に窮屈な世界だけれど、
感じる人間にしか、誤魔化せない人間にしかできない仕事があると、ぼくは信じている。
マイノリティという言葉は、「人に人より寄り添える人」、と変換したい。
迫川副店長の心意気に感謝。
ぼくらが生きるこの世界は素晴らしい、そう思える一冊。
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