2016年5月4日水曜日

daydream


幼き頃の夢を見る。
好きだった人は、日本にいない。
好きな人がいさえすれば、どこにでも住める、女の人は愛でできていると思う。ホーリーをその人も楽しんだのだろうか。
愛する人のためにカヌーやコーヒー、好きなことをすべて手離せるかといわれたら、それはなかなか、難しい。ぼくはカヌーやコーヒーに、ぼくのほとんど全部を費やしている。毎日空っぽになる。ぼくは余さない。毎日使いきる。

サッカー選手になりたかった。早いうちに挫折をした。
もうサッカーはやらない。やりたくない。辞める。そう、たかこに伝えた。
本当は好きなのに、あの頃のぼくにはどうしようもなかった。
まともであれば、ヤットはぼくだったかもしれない。

まともでないぼくは、流れ流れて、今、カヌーを漕いで、コーヒーを淹れている。どちらもお金にさせてもらっている。苦しいけどグッドラック。
ぼくは背負ってもらう左手の小指から背負う側、右腕になりたいと願った。
先日読んだ本では、器用なヤツより、下手くそなヤツが急に化けて面白くなるから、育てるというのは分からないと書かれていた。


『調理場という戦場』斉須政雄

五年。忍耐強く見守ってくれたかのあに感謝せずにはいられない。
まるで親。

人生は分からない。想像もしなかった場所に暮らす。
思出話に浸る相手はいない、いらない。ほしいのは今、これから。
懐かしむのはまだしばらく先でいい。だから、今、ぼくはここにいる。

どこかに行くと、人は「学生か?でないなら仕事はどうした?」と申し合わせたかのようにしつこいくらいに同じ質問の嵐に遭う。
オレはオレ。それ以上でも以下でもない。煩わしい質問、日本はなんて窮屈でくだらないのだろうか。面倒くさすぎる。長旅は学生だけのものではない。時間は大切だと思えばいくらでも捻出できることを知る人は少ない。

四万十の人たちは皆「食べてるか?元気か?」と、形より生身・生命を気にしてくれた。ぼくがどこから来た何者かとかそんなことは一向に介さず。ありがたかった。嬉しかった。
以来、北海道以外に暮らすなら、高知だと思っている。

雨音が赤い屋根を叩く朝。GWやで。







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